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川崎在日コリアン生活文化資料館 資料室
分類: 在日一世の証言
DT011
親の決めた結婚 一九二四年生まれ、女性
結婚したのは、20歳頃。夫になったのは同胞の人で、私の父親のところで土方をしていた7歳年上の人でした。両親が決めたんです。母親が、私の勤めていた機織り工場に来て、工場の門の外で待ってろって言うんで、行って立ってたの。それがお見合いだったの。隠れて、向こうのほうから、私がどんなだか見てたんだろうね。結婚してA町ってところに住んだんです。でも、すぐ最初の子を妊娠したもんだから、両親の近くに住みたいって夫に頼んで、その頃両親が住んでいたB町ってとこに移ったんです。セメント工場の社宅です。父親がそこで親方みたいなことをしていたので、空いていた社宅をまわしてもらったの。そこで、長男を産んだの。そのとき、21歳だったのは覚えてる。少しお金がたまったんで、C市でまた、パチンコ屋をしたの。周りにも何件かパチンコ屋があって、競争激しくて。で、大きい店出したのよ。私は4人目の子供を出産したけど、夫は相変わらず道楽をやめないで、女をとっかえひっかえでね。それで、夫と大喧嘩して。堪忍袋の緒が切れたって感じで、とうとう家を出ちゃったの。一番下の子がまだ生まれて2ヶ月くらいだったから一緒に連れて出た。厄年を迎える前だったね。でも、その時は、籍はそのまま。朝鮮の人は、籍を割るってこと絶対しなかったから。そんなことしたら、私の片足折ってやるなんて夫も言ったもんです。私の家族は皆、韓国に帰ってしまったから、夫のもとを飛び出しても、誰も頼る人がいなくてね。かまってくれる人もいなかった。1年ぐらい経って、D町にいた頃の母親の知り合いがE県に住んでるって聞いたんで、そこに行ったの。E県に行く頃には、夫の籍からも抜けることができててね。このE県の人も同胞の人だった。結婚しても子供ができなくて、もらい子をして、その子供と一緒に暮らしている人でね。この人とはもう一度会いたいね。私の身体がこんなだから、E県まで行けないけど。
徴用
徴用と結婚
仕事がなくどぶろく作り
どぶろく
解放後
解放後の一時帰国のために 
帰国準備
子供の受けた差別
強制連行されてた夫を追って
夫が死んで必死に働いてきた
親の決めた結婚
差別を逃れて
逃亡
戦後の池上町(旧桜本3丁目)で暮らして
「特別在留をもらいに毎月入国管理局へ」
トラヂ会の楽しみ