金 文善さん(キム ムンソン)
 
「私の大事な息子」
 
 
 キムムンソン金文善さんは、現在(二〇〇七年八月)八十一歳。
最近の生活は、前のページの作文にある通り、長男との二人暮しで、「息子にお嫁さんがいないから、私が炊事、洗濯、掃除、なんでもしなくちゃならない」と、こぼしながらも、そのことを生活の支えにして、現役の主婦業、母親業に近い仕事をこなす日々です。
 「八十を超えたら急に物忘れがひどくなり、それにこのごろは膝が痛くて遠くまでは歩けなくなったね」と思うにまかせない体を、じれったがりながらも、「内臓は、どっこも悪くないから、医者にも通ってませんよ」と、内科的にはいたって健康で、週二回の日本語の勉強(ウリハッキョと識字学級)や水曜日のトラヂの会に参加したり、友達と会ってお喋りを楽しんだりすることが、暮らしのリズムになっているようです。
  (ウリハッキョは、ハルモニたちを対象とした日本語の読み書きを学ぶ場。識字学級は、いろんな国のいろんな年齢の人のための文字学習の場)
 
【 故郷の記憶 】
 ムンソンさんは一九二六年一月十九日、キョンサン慶尚ナムド南道コジェ巨済グン郡(統営郡)サ ドンミョン沙等面チソックリ支石里で生まれました。
 巨済郡のある巨済島は釜山の南西に浮かぶ大きな島ですが、これといった産業もなく貧しい島でした。近年、本土と島を結ぶ橋もでき、高速バスが通るようになって、便利になったといわれています。
 故郷のことを話し始めると、どのハルモニも話したいことがいっぱいで、あれこれきりがないのが普通です。ムンソンさんも例外ではありません。
 「うちの田舎はね、前が海で後ろが山なの。だから、魚も美味しいし、畑のものも美味しいんだよ」というセリフから、いつもムンソンさんの故郷語りは始まります。
 一人の妹がソウルにいる以外は、きょうだい・親戚みんな故郷か、その近くにいるので、数年前までは、毎年、法事で帰っていたのに、年とともにそれもできなくなって、故郷は遠くて恋しいところとなったようです。
 「小さい時、ねばりのある、美味しいもち草摘みによく行ったよ。日本のもち草とはぜんぜん違うの。それを、かわかして袋に入れてとっておいて、次の年、2月ごろ、節句みたいなのがあるとき、出して、その草で餅をつくるの。ゆでて、アクを出して、ふかしたもち米に混ぜて、餅をつくの。すごい粘りがあっておいしいのよ」
 今では、昔、ムンソンさんが、もち草摘みに入っていった、その山で、もち草摘みをする人は、誰もいなくなり、山は松の木の生えるにまかせた状態になっていて、そこにお墓があるので、とてもじゃないけどお墓参りにも行けないと、ムンソンさんは嘆きます。
 小さいころは、母親を手伝って、ご飯を炊いたり、洗濯したりしていましたが、十二~十三歳ころになると、父親の農業を手伝うようになっていたそうです。
 「気がついたら、草取りなどはやってましたね。一枚の畑の草をとるように言われたら、一人で行って終わるまでやるわけなんだけど、飲み水持って行くわけでも、おやつ持って行くわけでもないから、ときどき木の陰で休んだりしながら、最後までやるんです。時計もないし、太陽の動きを見て何時ころかなって、思いながらやるんです。けっこうきつかったですよ。
 でも、田植えとか、大人も子どもも大勢でやる畑仕事は楽しかったですね。終わればみんなでご飯食べて」
 やさしくて、大きな声などだしたことのないお父さんだったけど、一度ひどく叱られたことがあり、それは、忘れられない思い出になっていると。「唐辛子のはっぱは干して食べるとおいしいんですよ。それをたくさん干して、自分たちも食べるし、売りにも出してたわけ。ある晩、そのたくさんの唐辛子の葉っぱの上で、ランプを倒して、葉っぱにランプの油がこぼれてしまったの。それを、黙っていたんですよ。そしたら、その一部をうちで食べたら、油くさいじゃないですか。もう、怒られたって、すごかったですよ。やったことを黙っていたのも、お父さんにすれば腹が立ったんでしょうね。売りにだせなくなったこともね」
 お母さんとのことは、「夜なべ」についてウリハッキョ(ハルモニたちの識字学級)で、みなで話しあい、短い文にまとめ、習字に書いた中に、故郷での一風景として書かれています。
 
【 夜学でカタカナ 勉強 】
 「学校は、昼間行けなかったから、夜学にちょっとだけ行ったんです。ソダン書堂・寺子屋のようなところで夜、勉強習ったの。
 そこで、初めは韓国語の勉強して、日本に来る前あたりかな、日本のカタカナで『カサ、カラカサ』っていうのやりました。ハングルは『カナダラマバサ』ね。日本語はカタカナをずっとやって、四年か五年ぐらいで、漢字をやりました。先生は朝鮮人でした。」
 
【 十六歳で日本へ 】
 十六歳の時、ムンソンさんは、静岡県沼津市にある「東京麻糸紡績」の沼津工場の募集に応じて日本に来ました。
 「東京麻糸に韓国の監督さんがいて、その人が巨済島に募集にきたんです。前から、そこへ韓国の女の人がいっぱい働きに行ってたんですね。
 私のいとこの姉さんも行って、何年かしたらもどってきたの。そしたら、きれいな洋服着て、頭もちゃんとして、皮靴なんてはいてたんです。羨ましくて、『ああ、私も日本へ行きたい』って、思ったわけ。それで、日本へ行きたいもんだから、監督に会いに城浦(ソンポ)って町まで行ったわけ。そこの旅館みたいなところには、山奥からみんな集まってきていたんです。みんな、そこに泊まっただけでも嬉しくて、もう田舎には帰りたくない、そのまま、すぐにでも日本に行きたいなんて言ってました。
 一応、試験みたいなのがあって、いろいろ聞かれたり、やらされたりして、合格ということで、二百五十人ぐらいいっしょに来ました。」
 
【 工場で 働く 】
 ムンソンさんは、沼津工場では、同郷の人たちと寄宿舎生活をしながら、〔製綿〕の仕事をしました。同じ部屋に、十人ぐらいで、住み、食事は食堂で食べました。
 「私らが働いたところは、製綿ってところ。製綿っていうところは、はじめに麻を蒸かすんです。それから、それを洗って、干して、私らの働くところまで運んでくるんですが、すごいほこりなんですよ。マスクして、頭に帽子かぶってましたよ。ほこりのたたないきれいな働き場所もあったけど、製綿ってところは、部屋の向こうや人がみえないくらいのひどいほこりでしたね。
 それに、ぐるぐるまわる大きな機械の前にたって、緊張してましたから、たいへんでしたよ。怪我したら、手がなくなったりするんですから。三交代で働いたんです。
 それから、一時期、何枚も重ねた布を鋏で切る仕事を一日中していたことがありましたね。これもたいへんでした。そのときに、ほら、この指二本が曲がってしまったの」と、節くれだって曲がっている右手の人差し指と中指をみせてくれながら、「でも、精錬っていう仕事はもっとたいへん。麻を煮て、洗って、また洗ってするんだから、水仕事。いつも長靴はいて仕事して、食事の時もずっと長靴ですよ。いつも、水仕事ですからね。みんな、女がするんです。男は、機械の修理する人ぐらいで、少ししかいませんでしたよ」と、話を続けます。あれほど、行きたかった日本なのに、現場にはいったら、こんな状態だったので、ムンソンさんはがっかり。
 同じように朝鮮から連れて来られて、東京麻糸で働いていた女性が戦後、東京麻糸を相手に、公式謝罪と賠償を求め、裁判をおこし、その中で、働きながら学ばせる、休暇もきちんととらせるといった、事前の契約内容が守られなかったとしていますが、文善さんは、「土曜日や日曜日に休みがありましたよ。会社の中で、夜、勉強もしました。」と言います。四十四年以降、連行されてきた人たちには、それらのことは全くなかったのでしょう。
 
【 工場を逃げだす 】
 ムンソンさんは、工場から二回も逃げ出しています。二回目は逃亡に成功し、そのまま終戦をむかえました。
 「もっとお金を貯めて、早く国に帰りたいと思ったからだけど、お姉さん(年上で仲よくしている人)に誘われなかったら、やってませんね。友だちと三人で逃げたんですよ」と、すごい決心で実行した感じでもないのです。
 一度目は、そのお姉さんの知りあいが、富士宮(山梨県)の山奥で、飯場をやっていたので、そこに紛れこんで、ご飯炊きをやったりしていましたが、工場の人がみつけにきて、連れもどされました。
 寄宿舎で厳しい監視のもと、暮らしていたであろうのに、逃げ出せたということ、しかも、一度はみつかって連れ戻され、それに対して特別なおとがめもなく、二度も実行し、ついには逃げおおせたということには、いろいろな条件があったと思われますが、今となってはその間の事情をあきらかにしようにも、文善さんの記憶はハッキリしないのです。
 
【 沼津で結婚 】
 「終戦前、身を寄せていた知り合いの家で、紹介されて結婚しました。会社で3年半ぐらい働いたから、二十一歳のときだったと思います。ダンナとは十歳違い。
 ダンナも十九歳のとき、募集で日本にきているんです。でも、ダンナは、日本に来て、韓国の自分の故郷に一度も連絡をしてないんです。だから、ダンナの田舎も知らないし、親戚との付き合いも一切したことがないんです。こんな人間もいるんですね。子どもは、男二人、下に女の子一人、三人できました。
 だんなは、ろくに仕事もないもんだから、私がなんでもやって、お金を稼いだんです。リヤカーをひっぱって鉄をひろったり、誰かがドブロク作っていると聞けば、自分もつくりました。いちばん長くやったのは、ドブロク作り。
 ドブロクは、米を洗って一晩つけておいて、次の日、ざるにあげて蒸かし、それを麹といっしょにまぜて、水を少し入れて三、四日ねかすとドブロクができるの。
 ドブロクを焼酎をしぼる機械に入れて、火に釜をおいて、釜の上に機械を置きます。ぷくぷく湧いて、湯気が出てきて、それを水で冷ますと焼酎になるんです。」
 できあがったドブロクや焼酎を自転車に乗っけて、沼津の駅前の屋台に売りにいったということです。ダンナさんが運んだり、ムンソンさんが運んだり。
 「税務署が来て、みつかってとられたり、罰金払わされたりしたことは、もちろん何度もありました。一番ショックだったのは、焼酎の一斉摘発にあい、裁判にかけられ、刑が決まって数ヶ月(?)刑務所に入ったことです。子ども三人はまだ小さかったので、福祉施設に預かってもらいました。刑務所の中で真面目に働いたので、予定より早く出してもらったのを覚えています。
 それからも、ドブロクで捕まって留置所に入れられたんですがそのときは、上の子二人は近所の人にみてもらいました。でも、下の女の子はどうしても、私から離れないので、子連れで留置所に二晩ぐらい泊まりましたよ。本当に子どもには苦労させました」
 しかし、当時は米代も安く、ドブロクづくりはそこそこ儲かって、なんとか家族五人が食べられたので、何度捕まろうとやめるわけにはいきませんでした。
 
【 三十二歳で主人を亡くす 】
 ムンソンさんのダンナさんは、背の高いかっこうのいい人で、女が好きで、酒が好きで、遊ぶのが好きで、仕事もお金もないのに飲んであるいて、ムンソンさんは苦労の連続でした。
 結婚した当時は、土方をしていて、毎日ではなくとも、そこそこあった仕事が、終戦で全くなくなり、それ以降はぶらぶらしていることが多くなりました。
 「お金」、それはドブロクや焼酎をしぼり、鉄くずを拾い、ムンソンさんが、必死になって稼いだお金なのに、それをどんなに隠しても探しだして、飲んできました。
 そのダンナさんが、出先で倒れたと連絡を受け、駆けつけたのは、ムンソンさんが三十二歳のときでした。友人と飲んでいて急に倒れたと友人の奥さんが知らせに来てくれたので、駆けつけました。行ってみると、ダンナさんの側には誰もついてくれていなくて、一人で寝かされていました。ムンソンさんが着いて間もなく、ダンナさんは息をひきとりました。医者を呼ぶこともしなかったことをムンゼンさんは、いまも後悔しています。
 葬式らしいこともできないまま、ダンナさんを見送ったムンソンさんには、悲しんでいるゆとりなどなく、その日から生活のため、三人の子どもたちのために働かねばなりませんでした。
 
【 川崎に移り住む 】
 沼津での生活が立ちいかなくなったムンソンさんは、知り合いを頼って川崎に引っ越してきました。一度、川崎に下見に行き、川崎ならなんとか食べていけると思い、引っ越しを決めました。子どもは、八歳、六歳、四歳になっていました。このとき文善さんは、三十三歳(?)。それから、仕事をやめる七十二歳までの約四十年間は、ただただ暮らしのために、少しでも多くの収入をと、がんばり続けた日々でした。
 川崎に来て、最初に住んだのは池上新田(川崎区)。最初は、当てにしていた川崎市の失業対策事業には就けなくてとりあえず鉄くずを集めてお金を得ました。
 生活保護をもらい、そのうち失業対策の仕事もできるようになり、夜は知り合いの居酒屋で働き、それでやっと暮らしていけるようになりました。
 
【 屋台店をはじめる 】   
 ムンソンさんは、失対の仕事で道路清掃をしてリヤカーをひいたりしているとき、追分(川崎区)で屋台店をやっている人を目にし、自分もやりたいと思い、知り合いに教えてもらって、屋台の道具を借りて、屋台店をはじめました。
 おでんや、焼き鳥で酒を飲ませる店でした。子どもたちに夕食を食べさせたあと、六~七時ころから準備をして店を開けました。屋台を組み立てるのが女にとっては、大仕事で、たたんである道具を開くとき、頭をぶつけてばかり。
 「お客さんは、うちみせ内店が閉まって、飲む場所がなくなってから屋台へ流れてくるんだから、私の店が忙しくなるのは十二時時から四時ごろだったね。家に帰るのは、五~六時。それが、毎日毎日だから、くたびれて夏なんかそのまんま屋台の棒を握り締めて、眠り込んだことが何度あったか」
 そのころが、一番余裕がなく、子どものことは放りっぱなしで、参観日や運動会や親の出席すべき日に学校へ行ったのはたった一回あったぐらいで、男の子が臨港中学でいじめられたと、家に帰ってきて訴えたことがあったけれど、充分に子どもから話を聞いた記憶もないとのこと。
 「子どもも日本鋼管の売店の会計の前で、新聞や牛乳や納豆などを売るアルバイトをして助けてくれました。今から思うと、子どもは親に聞いてほしいことがたくさんあったんだと思うんだけど、そのころは、そんなひまなんかなくって、かわいそうだった。子どもを遊びにどこかへ連れて行ったことなどただの一度もないねえ」
 住む家は、その後、セメント通り、渡田、四角、桜本、藤崎(全て川崎区内)と移り、いまは大師のマンションにおちつきましたが、屋台店はずっと追分でやっていました。
 
【 内店をもつ~夜間中学へ 】
 季節や天候に左右される外での屋台店は、きつい仕事なので、ムンソンさんは、なんとかして内店をもちたいとがんばりました。初めて店をもったのは、渡田でしたが、もっといい場所でやりたいとさらにがんばって、藤崎に店を借りました。
 ここは、同じ様な飲み屋が四~五軒並んでいて、客の集まりもよく、働いてはだんだん広い隣の店、隣の店と借りかえていきました。
 「お店やってればいろんなことありましたよ。酒がはいるとからんでくる人もいました。そういう人はさからったらだめなの。苦労したから人扱いは上手ですよ。
 なんといっても、くやしかったのは店の売り上げ金を盗まれたこと。何回かあった。一回は、店のごみ捨てに外へ出たちょっとしたスキに、三人いた客のうちの一人が店のお金全部持って逃げたんですよ。ほかの二人は寝たふりしてました。グルだったんだね」
 「こういう店は一人でやるのはもちろん大変ですし、女の子がいないとお客さんが来ないので、女の子を一人とか多いときは二人おいていました。
 それで、このとき、女の子に店を頼んで、中原の夜間中学に通う決心をしました。故郷の書堂でカタカナ、工場で働いたとき平かなと漢字をすこし勉強したけれど、もっとしっかり日本語を読んだり書いたりできるようになりたいと思ったのです。バスと電車を乗り継いで中原まで通うのはたいへんで、終わりまで通いきることはできませんでしたが、そのときのがんばりで、いま、作文を書いたり、短い文を読んだりできるようになりました。
 でもこのときも、夜間中学から帰るとまた、店で夜中まで働きました」
 この間に、娘さんは成長して、ムンソンさんの心強い相談相手になってくれ、やがていい人と出会って結婚しました。続いて次男坊も結婚し、ムンソンさんは一仕事も二仕事も終えた気持ちになりました。
 働き詰めで休む間などまったくなかった四十年余でした。ムンソンさんは娘さんに「もう、店をやめるよ」と話して、店を閉じるとともに、長かった労働から解放されたのです。
 ムンソンさんは、「本当に、自分でもよくやってこれたと思うよ。私ほど苦労した人はいないと自分では思うんだけど、そうだね、みんなも同じように苦労したんだろうね。
 娘も息子も近くにいて、いつでも相談にのってくれるし、子どもたちはそれぞれにやっているので、安心だし、私も健康なので、いまが一番いいときだね」と、来し方を振り返りながら、いまの幸せをかみしめているようです。
 
東京麻糸紡績
 日本の紡績工場には早くから女工として朝鮮人少女が働いていた。募集人が集め、斡旋して働かせていた。東京麻糸もそのひとつ。設立は一九一六年。翌、一九一七年に沼津工場が設立される。一九二〇年代後半から沼津工場では、朝鮮の女性を三ヵ年契約で募集し、寄宿舎に入れ、厳しい労働条件で働かせるようになった。
ウリ八っキョでムンソンさんが描いたネギの絵

 東京麻糸は、一九三〇年代に入ると、麻糸の軍需用受注が増え、工場の拡大を行うとともに、軍需産業企業として、一九三九年の強制連行の開始から、沼津工場へ朝鮮女性を連行し始めた。(四十四年には、『女子勤労挺身隊』の形で、三〇〇人を超える朝鮮の女性が、連行された)
 そのころ、沼津工場では軍用テント・袋・カバー・旗や軍用機の翼用布などの生産に追われていた。
 ムンソンさんが、沼津工場に来たのは、一九四一年(?)と思われるが、それは、東京麻糸が軍需産業工場として突っ走っていたまさに、そのときであった。
 東京麻糸沼津工場は一九四五年七月十七日の空襲で焼失したため、朝鮮の女性たちは富士紡小山工場にうつされ、戦後は、そこから集団で国に帰された。
 このミニ伝記は、「在日コリアン高齢者の生活史を聞き取る事業」の一環として行なわれた二〇〇六年八月の集中聞き取り(かわさきのハルモニ、ハラボヂと結ぶ二〇〇〇人ネットワーク)で、山田泉さん、小張慎平さんが聞き取ったものを整理し、まとめました。
 また、すでに数年前、樋口雄一さんを中心に、聞き書きを行ない、テーマ別にまとめたものから、金文善さんに関する項をひろいだし、参考にしました。
 
(聞き手/文 鈴木 宏子)