徐 類順さん(ソ ユスン)
 
【 プロローグ 】
 徐類順さんの日本との出会いは故郷のなにげない日々の中からはじまります。
赤ちゃんの時に父親を亡くした徐類順さんは、父の面影を知りません。徐類順さんの母親は、女手一つで三人の子どもを育てなくてはならず、仕事に明け暮れる毎日。末っ子の徐類順さんは、親戚の家に預けられることもしばしばでした。
 幼少期を過ごした伯父の家の隣に、日本人の家族が住んでいました。その家庭には小さい男の子がおり、夫妻に頼まれて子守をする徐類順さんを、その子はとても慕うのでした。
 「その坊やがね、私から離れなくってね。付きっとおしだったの。私も坊やが大好きだったの。その家の旦那さんが亡くなってね。奥さんが、旦那さんの遺骨を持って日本に帰る時に、私も一緒に来てくれということになったのね。」
 当時、十三歳だった徐類順さんは一人、大切な人を亡くしたばかりの日本人母子に寄り添って福岡の地を踏んだのでした。滞在は短いものでしたが、徐類順さんにとって忘れがたい初めての日本行きとなりました。
 忙しい母親にかわって、幼い徐類順さんのそばにいて可愛がってくれたのはおばあさんでした。おばあさんは添い寝をしては色々な話を聞かせてくれました。話の内容は忘れてしまいましたが、「日本人は昔、うーんと悪いことをしたんだ」と時折言っていたことが記憶に残っています。
 おばあさんが、どの出来事を指して「うーんと悪いこと」と言ったのか、後に徐類順さん一家が日本で暮らすことを予期していたのかは分かりません。これからますます日本人と関わりあって生きていかなくてはならない幼子に、用心深く、うまく付き合っていく可能性を閉ざさずにいて欲しいという思いが込められていたのかもしれません。
 
【 日本での生活のはじまり 】
 日本人母子に付き添って福岡へ渡ってから一年も経たない間に、徐類順さん一家は生活の場を日本に移すことになります。
 すでに上のお兄さんは日本で仕事に就き、下のお兄さんは専門学校に通っていました。一家そろって暮らすために、一九四〇年、徐類順さんとお母さんは海を渡りました。当時、十四歳だった自分を徐類順さんはこう振り返ります。
 「日本に来る時はどんな気持ちっていうよりも、お兄さん二人とおじさんも日本にいたから不安っていうことも分からなかった、ただ親についてきたから。ただ、おばあちゃんと離れるのが、それが一番辛かったのね。」
 大好きだったおばあさんとの別れは、今生の別れとなってしまったのでした。
 
【 五反田での生活 】
 徐類順さん一家が最初に落ち着いた先は五反田でした。十四歳の徐類順さんも、すぐに友人のつてで働き始めます。
 朝七時頃にはお弁当を持って、下駄をはいて歩くこと三十分。旋盤工場へ向います。
 「お弁当って言ったって、今みたいにごはんとおかずってならないのよ」
 大豆のおからでかさ増ししたごはんと、家で漬けた貴重なキムチをすこーしずつ入れるだけ。
 しばらくは見てまねるだけの単純作業です。勤務時間は朝八時から夕方五時まで。休憩はお昼に三十分、十時半と三時に十五分ずつ。お給料は封を開けずにお母さんに渡しました。ですから、いくら入っていたのかも分かりません。 
 遊びたいとか、仕事がいやだとか思ったことはありません。母親は徐類順さんより早く家を出て、帰ってくるのも徐類順さんより遅いのです。自分より長く働く家族のために、家に帰ったら休まずに夕飯の支度にとりかかる。それは徐類順さんにとって、当たり前のことでした。
お母さんは鋳物工場で働いていました。若いときから苦労が絶えず、無口な母親は、帰ってきて仕事の愚痴をこぼすということはありませんでした。だから、どんな仕事をしていたのか、徐類順さんは知りません。聞いてはいけないような気がしていました。決して体が丈夫ではなかったお母さんの様子を徐類順さんはこう語ります。
 「ぐったり疲れた様子でね。埃を頭から体中、いっぱいかかって帰ってくるのね。そういう仕事なんだなーって。服もよそ行きがあるわけじゃなし、化粧なんかしない。鏡もない。うちのお母さんなんかクリームもつけたことないんじゃない。やるの見たことないもの。」
 八十歳を過ぎた徐類順さんが、今も後悔して、悔やんでいることがあります。
 「旋盤工場のお友達がね、映画に行こうって誘ったの。それで、お母さんと二人でたらいで洗濯していたときに思い切ってお願いしたのよ。『映画行きたいんだけど・・・』って。『だめ』って言われるの分かっていたけれど、どうしても行きたい気持ちになってね。やっぱりお母さんは、『だめ、絶対にだめ』って。私はなんだか急にすっごく腹が立っちゃってね、なんだか絶対行きたいような気持ちになってね、洗濯物を乱暴にばんばんばんばんってやったの。結局、だめっていうのは変わらなくて行かなかったんだけど。でもねー、今でもそれを思い出すのよ。お母さんにあんなこと言って、無理って分かっていたのに、それなのに腹を立てて洗濯物をばんばん乱暴にしたりして、悪かったなー、あんなことしなきゃ良かったなー、お母さんを悲しませたなーって。今でも後悔するのよ。」
 遠くを見つめ、しばらく口をつぐむ徐類順さんの心は、十四歳の娘さんにかえっているかもしれません。やがて、思いがけないほどの明るい笑顔が広がります。
 「一度だけね、お友達と夜、ボート乗りに行ったの。楽しい思い出といったら、それかな。旋盤工場で働いていた時にね、監督さんが同じ韓国の人でね。私とキミちゃんと、それからもう一人、まだ子どもの私達を連れて行ってくれたのね。子どもなのに毎日仕事でかわいそうだと思ったんじゃない。やさしい監督さんだったよ。多摩川の土手のところにボートが出て、川っぱらのところで、ほら、ガリガリって氷を削るやつ。そうそう、カキ氷ね。赤とか緑のかけてくれるの。それを買って食べて、ボートに乗せてもらったの。遊びに行くなんてそうないし、夜出かけるなんてまずないから、わくわくしてね。今でも多摩川の河原のところに行くと、『あー、ここでボートに乗ったなぁ』なんて思い出すのよ。」
 
【 文字のこと・学校のこと 】
 ハルモニに文字のこと、学校のことを尋ねると、共通した当時の社会通念が語られます。当時、朝鮮では女子が文字を習うなどの教育を受けると、嫁いだ先で実家に手紙を書くばかりになるから受けさせなくてよい、受けさせるべきではない、という考え方です。その先にひとりひとりの物語があります。徐類順さんも、この時代的な背景を指摘します。さらに続けて、「それでもね、やりたい人は駄目って言われても隠れてでも何しても学んだんだよね。うちはお父さんがいなかったというのもあったと思うけど、二歳上のお兄さんが、自分が学校へ行くでしょ、帰ってきたら習ってきたことを私に教えてくれようとしたのね。『これからは女も勉強できなきゃ困るんだから』って。でも、夜は眠いし。疲れてるから、眠りたいじゃない。それはずいぶん言われたけど・・・。それだけだよ、お兄さんが私にきつく言ったことは。その時、一生懸命やればね。私がばかだった。今考えたら、その時やれば、頭に少し入ったかもしれないよ。」
 徐類順さんは七十歳を過ぎてから、ふれあい館で開かれている識字学級に通いはじめましたが、目の病気を患い、途中で断念せざるを得ませんでした。
 「私はね、もう目から涙が出てしかたがないから、字を習えないんだけれど、もし、字を習えたらね、教会の本を読みたいの。うちはずっとカトリックです。」
 終始、柔和にお話をされる徐類順さんが、最後のくだりに決意表明にも似た凛とした響きを込めます。
徐類順さんの家では、徐類順さんが知る限り、祖父母の代からカトリックで、おばあさんは常にロザリオ(十字架)を身に着けていました。日本に渡る際の携行品に、衣類や生活道具はほとんどありませんでしたが、お母さんのロザリオはちゃんとありました。
 「五反田に来たら、教会なんて行ってられないでしょう。それでも一年に二回か三回か、お母さんがどうしても教会に行きたーい気持ちになるのね。お母さんも字が分からないから電車とか、ひとりでは乗れないからね、お兄さんに『教会、連れて行ってー、連れて行ってー』って言ってね。たまに連れて行ってもらったの。大森の教会。神父様のお話聞いたり、日曜日に行かれるわけじゃないから、ただ教会に入って祈ったりね。たまーに、どうしても行きたいっていう気持ちになったみたいだね。」
 生活場面で文字を書けなくて大変な思い、悔しい思いをしたことは思いつかないと言います。
「そういうのは、ぜーんぶ兄さんたちがやってくれていたからね。」
 
【 静岡へ、名古屋へ、そして結婚 】
 まもなく、よりよい働き口があるという親戚からの知らせに、徐類順さん一家は静岡へ移ります。そこでは、銀の採掘が行われており、徐類順さんも労働力を担います。そこでの工程は、①地下の岩を切り出し、②岩に混じる銀を採取し、③残った瓦礫を廃棄するという流れです。徐類順さんは最後の銀を採取し終わった瓦礫をトロッコで運ぶ仕事につきました。朝の八時から四時半まで、戸外で働き通しです。それでも徐類順さんは、自分よりも大変な仕事を担っていた人々を気づかいます。
 「私達の仕事はトロッコを運転している間は力もいらないしね。その中では楽な方なのよ。トンネルに入って行くのは男の人たち。ランプを持ってね、地下へ潜っていって作業をするの。出てくると顔も体も真っ黒。土がいっぱいついてね。大変な仕事なの。事故とかもあったよー。」
 ほどなく、別の親戚からの連絡で、今度は名古屋に移り住みます。徐類順さんにとって従兄弟にあたるおじさんが、建築現場を仕切る大きな仕事についたのです。
 徐類順さん一家の暮らしは安定しました。転々とした生活を経て、名古屋が最も愛着のある土地となりました。所帯道具をほとんど持たない徐類順さん一家にとって、従兄弟が用意してくれた住まいは広すぎ、荷物を整理してもがらんとだだっぴろかったことを覚えています。
 しかし、ようやく安定したかに見えた生活に、影が忍び寄ります。戦争です。工場が立ち並ぶ徐類順さんの家の周りも幾度となく空襲を受けました。防空壕に入ったり出たりする毎日。町内での火消し訓練、本土決戦に備えた竹やり訓練にも加わりました。千人針で兵隊さんを見送ることが日常のこととなりました。
 「この頃は、日本の女の人や子供達は疎開していったけれどね。私達は疎開するところなんてないし。怖いこともあったけれど、家族みんな一緒にいられたから。それが一番。」
 十八歳で結婚。相手の方は、二番目のお兄さんと一緒にトラックの運転手をしていた人でした。
 「どうって言っても、分かんないよ。すれてなかったし(うふふ)。親がいいって言ったらそのまんまかなぁって。戦争の最中だから。着物だってもんぺはいてお嫁に行ったのよ、袂のところをちょっと縫ってね、もんぺはいて、防空頭巾さげて、それでお嫁に行ったの。」
 新居は、徐類順さん一家の住まいの隣ということもあり、生活自体はさほど変わりませんでした。
 
【 終戦、帰国、別れ 】
 結婚して一年が過ぎた頃、女の子を授かって数ヶ月の徐類順さんにとって、終戦も身近には感じられませんでした。原子爆弾によって日本が無条件降伏をしたことは理解していましたが、乳飲み子の日々の食べ物や着るもの方が圧倒的に重大事でした。終戦直後の変化と言えば、道を歩くアメリカ人の姿に戸惑い半分、好奇心半分の気持ちを抱いたことぐらいです。
 「アメリカの人が来て、『ハロー、カムカム』とか言って、何言っているか分からないけど、道を歩いているの。回覧板が回ってきて、『アメリカが来たから、子どもがいる家は、おっぱい出して飲ませるな』って。チューインガムをくれたりするんだけれども、相手にしちゃだめって言われてね、最初はみんなで逃げていたよ。背は大きいし、色の黒い人をはじめて見たから。今は色の黒い人もへいっちゃらだけど、当時は怖いなーって思ったのよ。」
 やがて、一族のくらしを支えていた従兄弟のおじさんが、奔走と画策の末、韓国への帰国の手はずを整えてくれました。朝鮮人として、朝鮮に帰り、身内で協力しあって仕事をすれば、生活を再建できると誰もが信じていました。三十人以上の親族が、一艘の貸切船で下関から釜山へと出航したのです。経済的に余裕のない朝鮮人は故郷へ帰ることがかないませんでした。アボジがわりに徐類順さん一家の面倒を見てくれた従兄弟のおじさんは、それまでに築いた家財の一切を投げ打って一族の帰国に夢を託したのでした。
 朝鮮半島での様子を、徐類順さんは語りません。ただ、「あー、良くなかった」「良くない」とだけ繰り返します。夢を抱いてたどり着いた故郷が、言葉にならない艱難の地となってしまったのです。ただ「良くない」と遠くを見てつぶやき、しばしの沈黙が流れます。「乞食以下だよ・・・」さらに追い討ちをかけるように、悲しい出来事が徐類順さんを襲いました。これまで、どんな苦境も家族の支えあいで乗り越え、それによって家族の結束を強めてきた徐類順さんの家族に、永遠の別れが訪れます。
 「同じ年に、お母さんが亡くなって、それからうちの主人が亡くなった。お母さんは病気っていうか、神経やられちゃってね。いろんなことが重なっちゃったから。私は二十一歳、子供が三歳だった。子供がおばあちゃんを探してね、あっちの部屋に行ったり、こっちの部屋に行ったり。・・・お母さんも亡くなって、主人も亡くなって、もう生きようがなくなっちゃった。」
 日本での生活を語るとき、どんなに過酷な場面でも、「いやだとか、つらいとか、そういうことはないのよ。ただ家族のために、仕事!仕事!生きる!生きる!それしかないの!」と力強く、自信に満ちて語っていた徐類順さんが、家族という支えを失い「目の前がまっくら」とつぶやくのです。
 
【 再び日本へ――今のくらし 】
 「浮いたまんま、生きる希望がなくなってしまった」
 それでも生き残ったものは生かされ続けます。徐類順さんは、やがて親戚の紹介で再婚をしました。他には道がないように思えました。再婚を機に再び日本へと渡り、八十歳を過ぎる今日に至るまで、川崎が生活の地となりました。
 再婚当初は、かわいい盛りの一人娘を韓国の叔母に預けざるを得ませんでした。生きるためにやむを得なかったのです。
 生活が安定するにつれ、娘さんを呼び寄せ、一緒の暮らしができるようになりました。「自分ができなかった分、子供だけには教育を」という一心で働き続けました。
 その夫にも先立たれ、今は娘さんと、二人のお孫さんとの4人暮らしです。今も目の病気や、ひざの痛みなど、困難がないわけではありませんが、昔に比べれば平穏な毎日です。でも、あの頃
、ひらすら生きることに徐類順さんを駆り立ててくれた家族の絆が薄らいでいるのかしら、と感じさせる場面もあるようです。
 「うちの孫がね、『おばあちゃんがそれでいいなら、そうすれば』って言うから『冷たいね』って言うと、『じゃぁどういう風に言えばいいの?好きにすればいいじゃん』って言うのね。自分は世話焼こうって思っているんじゃなくて、当たり前のことをしているだけなんだけど、若い人はそれを世話焼きって思うのね。孫が遅くまで起きてテレビを見ているのが気になって、言うと『いいんだよ、こっちでも考えてやっているんだから』って言われちゃう。おばあちゃん達はみんなそうなのよ。でもね、後から考えると思い出に残るからいいんじゃないかな、って思うのよ。あんまりうるさい事言わないようにしようかなぁ、とも思うけれど、見るとつい言っちゃう。でも、『おばあちゃんがいるからこういう事言うんだよ、いなくなれば、誰も言わなくなって、また寂しくなるよ』って言うの。そうすると、黙っちゃうけど。」
 
【 エピローグ 聞き手として 】
 徐類順さんの語りは常に穏やかで、聞き手の私は深い優しさに包まれているような感覚に陥ります。同時に、身をもって経験した人としての重みが、聞き手の軽々しい「悲しい出来事」「不安な出来事」「辛かった出来事」としてのくくりを拒絶します。「悲しいとか、嬉しいとか、そういうことではなくてね・・・」ゆっくりと言葉を選びながら、何度も伝えようとしてくださったこと。それらが、この小さな冊子の中に、どれだけ表すことができたか、心もとない思いです。
 それでも、徐類順さんをはじめ、在日朝鮮人一世女性の語りを幾度となく噛み締めなおすきっかけとして、この小冊子が皆様のお手元に届けられれば嬉しく思います。
 
(聞き手/文 猿橋 順子)
  
【 註 】
・この冊子の内容は、川崎市ふれあい館で実施した「在日朝鮮人一世女性の聞き書き事業」(二〇〇四年十一月)および、川崎のハルモニ・ハラボジと結ぶ二千人ネットワークの「世代間交流事業」(二〇〇六年八月)における徐類順さんの語りに基づいています。