メルマガ第22号

2009 年 9 月 2 日 edt03ht

川崎在日コリアン生活文化資料館メルマガ第22号
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 川崎在日コリアン生活文化資料館 メールマガジン 第22号
 2009年2月7日(土) 資料館運営委員会メルマガ担当発行

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2006年4月、「川崎在日コリアン生活文化資料館」が開設されました。これにともない、資料館の主役であるハルモニやハラボヂたちと、資料館をオンラインで訪れる人、資料館づくりを支える人びとをつなぐコミュニケーションの手段として、メールマガジンを発行しています。
《第22号内容》
1.ハルモニ、ハラボジの近況
     ・ハルモニと行く陜川・釜山への旅 その2
2.世代間交流レポート
     ・わいわいキムジャン
3.平和と歴史を考える博物館めぐり
     ・立命館大学 国際平和ミュージアム

 

□■□ ハルモニ、ハラボジの近況 □■□

トラヂの会のハルモニ、ハラボヂとボランティアのみなさんが恒例の韓国旅行に行ってきました。鈴木さんの訪問記、今回は後半部をお届けします。

◇ ハルモニと行く陜川(ハプチョン)・釜山への旅 その2◇
              鈴木宏子さん(トラヂの会ボランティア)

《釜山近代歴史館と40階段文化館を見る》
釜山では、釜山近代歴史館を見学しました。この建物は、あの悪名高い土地調査事業を実行して農民から土地を奪った東洋拓殖株式会社の釜山支店であった建物です。ここでは、主に、日本が侵略時代、釜山を農業・工業・水産業・金融など、あらゆる面で支配していた様子を写真や資料の展示から知ることができます。船による往来が中心であった当時、その玄関口である釜山に住んでいた日本人はソウルよりずっと多く、釜山の町並みは(写真)、ここは日本か?と見まがうほどで、他を圧する銀行や役所などの立派な建物は、侵略政策遂行の目的で建てられたものであると納得させられます。あるハルモニは、『三中井百貨店』の説明を受けて、「日本に行く前、ウル山(釜山の近く)の田舎に住んでいて、釜山に三中井百貨店というすごい百貨店ができたと聞きましたけど、私らには関係のないところでした。その百貨店がこれなんですね」と興奮気味に話す。今はすでに存在せず、一度も行ってみることのなかった『三中井百貨店』の写真を前にして、ハルモニは、70年も昔に抱いた想いとどんな折り合いを付けたのでしょう。片や、私の友人で、戦後、小学校2年生のとき、釜山から引き上げてきた彼女の口から、「覚えていることの一つは、いつも行って買い物をしていたのは『ミナカイ百貨店』だったということ」と何度か聞きました。

 *東洋拓殖株式会社の釜山支店の建物は、1945年8月の解放後は、アメリカが没収、「釜山アメリカ文化院」となる。その後朝鮮戦争中、釜山に臨時首都がおかれたときには、アメリカ大使館としても使われたが、1980年代に入り、民主化闘争の高まりの中で「釜山アメリカ文化院」の返還を求める市民活動も活発になり、1999年、この建物は韓国政府に返還された。

 *その後、この建物は釜山市の所有となり、釜山市は釜山の近代史の中で、常に外国による侵略の象徴であったこの建物を、歴史を学ぶ空間として整備し、2003年「釜山近代歴史館」としてオープンさせた。

《40階段文化館》
朝鮮戦争時代、朝鮮各地から追い詰められて釜山まで避難して来た人が沢山いました。その避難民たちが、中区の釜山郵便局の東側にある階段(40段)の周りで、戦火の中、住む家もなく、日々の飢えをしのぐのがやっとという暮らしをしていたと言われています。その人たちにとって、この場所は家族、知人の安否を尋ねて張り紙をした場所でもあったということです。そうした戦争中の人々の苦難を忘れないために、40階段をのぼりきった所に、小さな「40階段文化館」が避難生活の象徴として建てられました。展示室には、避難生活を思い出させる展示物が置かれ、戦乱の中の青空教室による教育の模様が人形によって再現されたりしています。壁面いっぱいの「40階段」の当時の写真の前では室内に流されている「慶尚南道アガシ(お姉さん)」という大衆歌謡(「北の故郷へはいつ帰れる‥‥。」と避難民の気持ちを歌ったうた)を、朝鮮戦争後川崎に来て、今回の旅行に参加したハルモニたちが期せずして歌い始め、「この歌を知らない人はいませんよ」と言うのを聞いて、在日一世のハルモニたちは、「私たちの知らない韓国の歴史」に想いをはせるのでした。

 *日本が、戦後の経済復興を朝鮮戦争の特需景気で果たしたように、川崎に住む在日たちも、同じようにこの同胞たちの戦争によって経済的に息を吹き返すことができた。

 *最近、朝鮮戦争を経験したハルモニたちから、なまなましい体験談を聞かせてもらう機会が何度かあり、在日のハルモニたちの心の中に、「私たちの、しばしの経済的安定は母国の人々の苦しみの上に築かれたものであった」と、自覚されるようになってきた。「慶尚南道アガシ」のうたは、一世世代のハルモニたちになんと響いたのだろうか。

★この旅行に出かける前に、「ヒロシマを持ちかえった人々~『韓国の広島』はなぜ生まれたのか」(市場淳子著)を読んだ。その中に、日本の侵略政策の実施に伴い、朝鮮半島の農村が急速に疲弊し、農民の多くが国を出て行かざるをえなくなった経過が、詳しく検討されている。土地調査事業による耕作地の収奪、作付け農作物の強制栽培(米、綿花、繭)、農産物の供出などによって、特に狭い水田しか持ち得なかったハプチョンの農民は、米の代用食として作っていた麦、大豆、雑穀などを失い、たちまち自分たちの食べるものさえなくなり、それらを現金で買わなければならないところに追いやられた。そして、「疲弊」の最後の留めは、農作物の増産のために総督府が、それまで農民が自ら作り、使用してきた有機肥料ではなく、「金肥」を大量に使うことを強要したことであった。当時、発展段階にあった硫安工業を育成するために総督府は、「金肥」である硫安を押し付けた。その支払いのために、農民の経営は破綻を余儀なくされていった。
「朝鮮での硫安シェアは、1920年時代には新興財閥である日本窒素肥料株式会社である(日窒)が大部分をしめており、1930年代以降は、朝鮮に進出した日窒工場が生産する硫安がそのほとんどをしめるようになった。ちなみにこの日窒とは、1950年代に水俣病をひき起こした新日本窒素肥料(現在のチッソ)の前身である」(241頁)という記述がある。この数行の記述を目にしたときの私のショックは、複雑でどう表現すればいいのか分からない。

2004年、水俣フォーラムの主催で川崎で「水俣展」が開催されたとき、私は水俣展実行のための市民委員会に参加して水俣病に関する学習をした。「朝鮮半島の北部に巨大なダムと発電所をつくり、興南(フンナム)市に日本窒素肥料の大工場を建設し、そこから朝鮮半島全域の農村に硫安が持ち込まれ、この化学肥料の使用によって農作物の収量は大幅に増加した。また、そのときの日本窒素のブレインが高度の技術をもって、水俣に引き上げてきた」ということを学んだ。そのときは、「硫安(化学肥料)の使用によって、いくつかの問題はあったとしても、とりあえずは農民に収穫量の増加を保証したんだ」と、のんきに受け止めた。しかし、ことの本質は、日本が国策として企業の発展のために、朝鮮半島の農民を窮地に陥れ、結果として、かれらを朝鮮に住めなくしてしまったのだと知ったとき、私はそのような時代背景で日本に来ざるをえなかったハルモニ、ハラボジと日々接しているにも関わらず、そのことに思い至らなかった鈍感さや学びの浅薄さをただただ恥じ入るばかりであった。

★韓国を訪問する度に、歴史、文化などに関する博物館・記念館が少しずつ増え、それらが数年すると手を加えられて、以前に比べて充実していくのを何度もみてきた。今回、たずねた「40階段文化館」もそうであった。街中の公民館のような施設の中の5・6階部分に設けられた小さな文化館(?)であるが、朝鮮戦争の避難生活を中心に、戦争中の人々の日常を記憶にとどめようという点から、この間、戦争中の生活の模様(その一つは、ポン菓子屋さんと取り巻きの子どもたち)をブロンズ像にし、いくつかを階段前に新たに配置した道路公園が作られていた。ひるがえって、私が住んでいるところ(川崎北部)の近くには公のこのようなミュージアムはないなあと思ったとき、韓国には記憶にとどめて置くべき歴史的事実が多くあり、また、これらを市民共有の財産として記憶に留めて置くべきだと考え、実行に移す人がいることに気づかされる。だが、川崎・桜本にはハルモニたちが差別と戦争の中を必死で生きてきた歴史的事実がある。この輝かしい事実は是非とも記憶に留め、伝えていかねばならない。ならば、それらを入れる器が必要だと考える人があらわれてもおかしくない。年々、体の不調を訴えるハルモニが増え、したがって車椅子もふえる、韓国旅行です。しかし、彼女たちが国境を越えて母国に足を踏み入れたときに見せる解放感、現場に立つことによって思い出し語り始める自分史。それらに触れることで、多くのことを教えられます。そしてなによりも、彼女たちは生きている限り、何度でも自分が超えてきた国境を逆にたどって、故郷を訪ねたいのです。残された時間は、多くはありません。ハルモニたちの「次はいつ行くんですか」の声が旅行直後から聞こえてきます。次の韓国訪問はどんなかたちで、いつ実施されることになるのでしょう。                        2008、12、10
□■□ 世代間交流レポート □■□

12月8日~10日、トラヂの会「ハルモニのキムチづけ」企画にたくさんの人が集まりました。うららかな好天に恵まれ、3日間のキムチ漬け無事終了。参加者の声をお伝えします。

川崎市内で日本語教室ボランティアをしていらっしゃる足立さんは、ふだんからキムチがお好きということで、漬け方を教わり実際漬ける体験もできる機会と聞いて参加されたそうです。「白菜の塩漬けに始まり、3日目の薬念漬け込み後にみんなでテーブルを囲んだトラヂ会での昼食まで、楽しくてあっという間でした。ハルモニやほかの参加者との新しい出会いも楽しく、交流の場を満喫しました。このようにハルモニたちの集まる場の存在は知ってはいても、どんな感じなのか知らなかったが、料理教室などがあったらまた参加したい。」とのことです。

キムチ名人のハルモニの手の味、ボランティアのみなさんの細やかな支えが揃い、シンプルだけど味わい深い桜本伝来キムチの継承者がたくさん輩出されました(最終日には、漬けたてキムチがお土産に配られました)。
□■□ 平和と近代史を考える博物館めぐり □■□

平和創造の面において大学が果たすべき社会的責任を自覚し、平和創造の主体者をはぐくむため、1991年にこの世界初の大学立「国際平和ミュージアム」は設立されました。初代館長の故・加藤周一さんが基本理念と趣旨設立に基づく基本姿勢をつくる上で大きな役割を果たされたとか(HPより)。常設展示は、一五年戦争、現代の戦争、平和をもとめて、という3つのテーマで構成されていますが、企画展やイベントも充実。学芸員や立大生ボランティアガイドの説明はこれぞ正統派博物館!という感じです。私が訪ねた日は折りしもオープンキャンパスか何かで、受験生の保護者がミュージアムを見学する企画に合流して説明を聞くことができました。大学という知的・物的資源をこんなにふんだんに活用して、平和や歴史を考える場を子供に与えられる。私が親なら子供に受験させたいな、とつい心惹かれてしまいました。特に、30kgの背嚢の手ごたえが妙に印象的でした。
□ミニ案内□
開館 9:30~16:30(入館は16:00まで)
休館日 月曜日、祝日の翌日
見学資料費(個人) 大人400円 中学・高校生300円 小学生200円

京都駅(JR・近鉄)、西院駅(阪急電車)ほか各駅より
市バスにて「立命館大学前」「わら天神前」下車

お問い合わせは
立命館大学国際平和ミュージアム  
 〒603-8577 京都市北区等持院北町56-1
 TEL. 075-465-8151  FAX. 075-465-7899
 http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/

 

□■管理人より■□ 

悲しいニュースが相次ぐ中、訃報をここに掲載するのはやめにしました。人の命に限りがある現実は否定できませんが、故人の生涯を断片的にしか知らない私が紹介するという「軽さ」に、迷いが生じてきたのです。まずは静かに故人を偲び、よく考え、共有したいものがまとまったら改めて発信していきたいと思います。

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