聞き書き 

  
朴成出さん (1926年2月25日生まれ) 
     慶尚北道たやん郡出身 3歳ころ、黄海道、江原道へ
黄龍淑さん (1931年12月16日生まれ) 
     日本生まれ  

  • 聞き取り日: 2010年2月13日
  • 聞き取り者: 三浦知人、法政2高 小林先生 生徒3名

 
朴成出さん
 
 農村では食べていけず、父親は屋台飯屋を営む。ご自身は長男。妹が2人、弟1人の4人兄弟。
 16歳まで、江原道で暮らす。農家の手伝いなどをしていた。
 昭和16年か17年頃、村に徴用令が出る。 
 裕福な者は逃れ、貧乏な人たちが、その代わりに徴用に行かされた。
 村では10名ほど、会社の人と、朝鮮人の親方と、汽車とバスを乗り継いで釜山に集められる。船には全国各地から集められた300人ほどが乗せられた。福岡の炭鉱と聞かされたが、当時は、右も左もわからない状況。釜山を朝出て、下関についたのは翌朝。そこから各地の炭鉱にみんな送られた(すべて炭鉱)。朴さんは、ボートに乗せられ、九州に渡り、福岡の高松炭鉱へ。
 時期は、8月頃。2階建ての社宅で暮らし始めた。2週間は訓練。道具の名前を覚える。「ピック」や「つるはし」とか。その後、1週間は坑内訓練を行った。
 
採炭作業   
 6時に起きて 50人~60人入る広い食堂で朝食。弁当をもらって、7時半ごろ坑内へ、夕方の5時から6時まで働く。昼も弁当を食べたらすぐ仕事。帰宅後は、共同浴場に入り、食事。
 ケーブル線につながった貨車に乗って、さらにのりかえ 1時間くらい入っていく。そこから、竹のかごを引いて、一人ずつ アリの穴のようなところに入っていく。
 腰下の狭い洞穴には、体を横にして入った。中は涼しい。竹かごから引いて、広いベルトコンベアー状の流れるところに石炭の入った竹かごをあける。腕をまわしていっぱいくらいの大木が、重みでねじれて、危険を感じる。「さきやま」と呼ばれる大工が見回り、危険箇所につっかい棒を設置していく。
 給料は、はじめ3カ月は 1日5円~6円と言われたが、小遣いを3~4円もらっただけで、親に送金という話もあったが、もらったことはない。

 半年くらいで逃亡。まず、2名が逃亡。その後、先輩に誘われて3人で逃亡。
 夜、脱走したが、どこに行くかはわからない。夜走り、昼は山に隠れて、3日かかかって、福岡飛行場の中の飯場に逃げる。「どこどこ行けば、住むところと仕事がある」と誘われた。徴用期間が終わった同胞が炭住に出入りし、働き手を探しに来て、ひそかに脱走の手引きをした。(どこも人が足りない)
 炭鉱から社宅に帰ってくるとき、さくら棒でなぐられているのを目撃。脱走から連れ帰った者が、見せしめに殴られていた。怖くて逃げ出したかった。
 飛行場の飯場の親方のもとで敗戦まで働く。下関や小野田など、各地に仕事に出かけた。
 朝鮮人の中に、班長がいて、同じ朝鮮人を殴ったり、会社の日本人に告げ口したりする者がいた。解放後、下関や釜山で待ち伏せされて、そういう朝鮮人は殴り殺されたりした。
 
 解放後、5人の仲間で仕事を探した。飯場をめぐって、5人一緒に働けるところを探した。帰国したかったが、飯場時代の楽しみはばくち。帰国するための船代もなかった。
 小野田で妻(黄さん)と見合いして親が決めて結婚。小野田に暮らす。
 
 
黄龍淑さん
 
 黄龍淑さんは、14歳ごろに解放を迎える。家族と帰国のため、仙崎に土地を買い、バラックを建てて、帰国を待っていた。当時、出発するのに持っていかれる財産制限があり、取り上げられたため、取り上げられるなら捨てたほうがましだと、海にお金をばらまいたのも目撃。日本人警察の取り締まりに、「帰国したら韓国にいる日本人に仇討ちする」と毒づく人もいた。300人集まらなければ出航しないので、1か月も2カ月もそこで生活しなければならなくなり、お金を持ってきたものをみな、そこでの生活で使い果たし、無一文で帰国する人も多かった。そのうち、「とてもじゃないが、朝鮮では食っていけない」とどんどん逆に日本に再渡航する人が増えた。あきらめて、仙崎を去って行く人が増えた。自分の家も小野田に帰った。
 戦後4、5年は下関にいた。ある日、男の人が、密航で警察に追われ、バラックに逃げてきた。お母さんが、押し入れにかくまって、追いかけてきた警察を追い返したこともあった。子どもだったので本当に怖かった。
 
炭鉱が閉山して
 昭和34、5年ごろ、炭鉱が閉山していき、周辺の仕事もなくなった。朴成出さんは、妻の弟の紹介で、府中の大林組で土方の仕事に就く。当時東京オリンピックの準備で、土方仕事はたくさんあった。大阪の飯場が1日400円の時代。東京では1日1000円もらえた。それを2か所働き、1日2000円稼いだ。
しばらくして、黄龍淑さんも、先に来ていた夫に呼ばれ、上京する。小野田の家を処分し、初めて池上町にきて、びっくり。4畳半一間で、南京虫に悩まされ、外はノロが真っ赤に焼け、火事だと大騒ぎした。ばい煙が降って真っ黒で、「すぐ帰りたい」と泣いて訴えた。
 
 
趙 貞順さん(1924(大正13)年12月16日生まれ、86歳)

  • 出身地    慶尚南道 (大邱の近く)
  • 聞き取り日  2010年1月27日
  • 聞き取り者 鈴木宏子

 
結婚で神戸へ
 趙さんは、大邱から少し奥に入った田舎で生まれ、7歳の時、家族とともに大邱に出た。15歳の時、親の知り合いが引き合わせてくれて、神戸に住んでいた人と結婚することになり、父親と二人で神戸に来て、結婚した。趙さん、15歳。ご主人31歳。
 
 ご主人は、18歳の時、兄と二人で日本に来て、九州の炭鉱に入ったが、自分だけ「ここでは働き続けられない。朝鮮に帰りたい」と炭鉱を飛び出し、いろいろ経巡って神戸にたどりつき、沖仲仕をしていた。一人で飯場に住んでいたが、飯場の親方が大邱出身で、その人が仲人みたいな役をして、二人を結びつけた。
 
神戸で半年暮らす
 神戸で結婚生活を始めてすぐ、ご主人は、お兄さん探しを始めた。というのは、ご主人が炭鉱を逃げ出し、神戸に住むようになって、3年ぐらい経った時、お兄さんに手紙を書いたが、お兄さんからは何の返事もなく、どこに住んでいるか分からなくなっていた。ご主人は、結婚もして落ち着いたところで、お兄さんを本気で探す気持ちになったようだ。知り合いに聞いたり、役場に問い合わせたり、あちこち走り回ってやっと、宇部炭鉱にいることが分かり、連絡をとることができた。
 すると、お兄さんから、「宇部炭鉱で一緒に働こう。社宅があるから、家賃もいらないし、風呂も共同のがあるし、薪も買わなくていいし」という話しがあり、お兄さんが社宅を世話してくれたので、夫婦二人で宇部炭鉱に引っ越した。
 その時、町さんは妊娠していて、ひどいツワリの状態だった。
 「神戸で、私らが住んでいたところは周りに朝鮮人はいなかったけど、そのちょっと先には『トングルトンネ』っていわれてる朝鮮部落があったよ」
 
【宇部炭鉱から始まった炭鉱暮らし】
 趙さんたち夫婦の終戦を挟んでの炭鉱暮らしは、宇部炭鉱の炭住長屋から始まった。現在、86歳になる趙さんが夫婦で移り住んだ炭鉱の名を記憶に残る限りあげてもらった。
 
 宇部、床波、萩森、長生、船木、豊国、中村
 
と、たいへん多い。これらの炭鉱を、いつどの順に、どんな理由で動いたのか、思い出せる範囲で話してもらった。
 
 結婚後1年ぐらいで炭鉱に移ったようなので、炭鉱暮らしが始まったのは1940年ごろではないかと思われる。
 戦前・戦中は、国家のエネルギー源であった石炭は、掘っても掘っても足りない状態であったが故に、どこの炭鉱も人手不足で、坑夫たちは、それなりに少しでも条件のいいところを求めて動いた。趙さんのご主人は、結婚した時すでに31歳であったというから、石炭掘りの労働に熟練していない彼が働ける炭鉱は決して条件のいいところではなかったと想像される。その範囲で、彼はすこしでも給料のいいところ、危険でないところを選んで移っていったのであろう。当時は、働ける炭鉱はたくさんあった。
 宇部炭鉱へ移ったとき、妊娠中だった趙さんは、働くことはできなかった。ご主人の働きだけで食べていた。
 「給料は本人が掘った分に応じてもらえるんですよ。確か、宇部炭鉱では15日勘定だったですよ。15日毎にいくらぐらいもらったか、そうねえ、思いだせん。忘れたねえ。でも、のがた(土方)やるよりは、ずっとよかったですよ。その証拠に、当時は食べて残ったんでしょうね。女遊びの人もいましたが、うちは、少しでも金があれば、バクチ、バクチですよ。困ったもんです」
 
 「次に移った炭鉱は、床波炭鉱だったと思う。ここは海底炭坑で、社宅は海のすぐ側にあり、貝拾いに海によくいったし、貝もよくとれたので、充分おかずの足しになったよ」
 この海底炭坑は、設備のよくない炭坑だったため、ご主人たちが、坑内で掘っていると天井の上を船が、がたがた通る音がよく聞こえ、それと同時に海水とドロがいっしょになって、ピチャポチャと落ちてくるので、恐ろしくて気持ちが悪いと、よく、趙さんに話していたという。そうしたら、その床波炭坑の一部で水没事故が起き、怖くなって、趙さんたちはここから逃げ出した。
 
趙さん自身も炭鉱で働く
 「床波炭鉱から豊国炭鉱に逃げたが、その間どの炭鉱の次であったか、西宇部炭鉱とか萩森炭鉱にもいきましたよ」と、心細気に、趙さんは話す。しかし、床波炭鉱がこわくなって、次に行ったところは、豊国炭鉱であったことは確かだという。
 豊国炭鉱には長くいた、10年ぐらいいたと思うと、趙さんは話すが、1940年ごろから炭鉱で働き始め、この豊国炭鉱で終戦を迎えたとのことなので、計算が合わないのだが、ここでのことが、心に一番強く残っていて、そのように感じるのではないかと、お話しを伺っていて想像できた。
 なぜなら、豊国炭鉱時代どんどん戦争がひどくなり、3人の子どもを抱え(5人産んだが上の二人は幼くして死亡)生活は厳しく、彼女が働いて収入を増やすしかなかったことや、炭鉱で働けば特別配給切符がもらえることや、戦争で人手がますます足りなくなって中小炭鉱ではもぐりで女も働かせたことなど、さまざまな理由で彼女もご主人と同じ炭鉱で働くようになったからだ。
 女の炭鉱従事を、危険を理由に厳しく取り締まる法が存在し、その筋の監督者にそれが発覚すれば、その鉱山はつぶれるとまで言われている中にあって、不足した労働力を補うために、安易に安く使える女の就労が、中小の炭鉱でまかり通っていたわけである。
 
 趙さんは、ご主人と組んで、掘削の先端・切羽に入り、ご主人が掘った石炭を、趙さんがスラ(石炭を入れて、すべらして運ぶ竹製のかご)に入れて、運搬車のあるところまで運ぶ。子どもたちを家に残し、来る日も来る日もこの重労働を続けた。切羽は、狭く体を寝せるような格好で仕事をしなければならない。時には硬い場所にあたると、ダイナマイトでハッパをかけなければならず、危険な思いもたくさんした。重労働に加え、坑内は暑く、体の消耗は言い尽くせないものであった。
 趙さんは、「怪我した人も、死んだ人もいっぱい見たよ。でも、その扱いはいい加減で、坑夫たちの見えないところへ押しやっておくだけで、人間のあつかいではなかった」とも話す。
 「そう言えば、長生炭鉱で大きな水没事故があったことを聞いたのも豊国炭鉱にいたときだった。(1942年2月3日に発生)他人ごととは思えず、ぞっとしたね」
 
戦後は田舎で百姓
 戦後しばらくして、中村炭鉱というところへ行き、ここを最後に炭鉱を離れることになった。
 国家のエネルギー政策が、石炭から石油に切り替わったことと期をいつにして、趙さんたちの炭鉱生活も終止符を打ったといえよう。
 趙さんは、長く苦しかった炭鉱生活のことを思い出すままに、こんな風に話す。
 「どこの炭鉱に行っても、炭住長屋に住みました。日本人も朝鮮人も一緒でした。ここでは困ったときには隣近所で助け合い、朝鮮人だからといって、差別されるようなことはなかったね。給料だって、掘った量に応じてだから日本人、朝鮮人の区別なかったし。」
 「そう、徴用で朝鮮半島から連れてこられ、働いてた炭鉱から逃げてきた人もいましたよ。そういう人はすぐ分かるんです。でも、そういう人でも小規模の炭鉱では黙って使ってましたね」
 
 その後、もみのきという田舎に家族で移って百姓をした。それは、その地区の人で、子どもが都会に出て畑をやらなくなったので、そこを耕し使ってほしいと思っている老夫婦がいて、その夫婦に引き合わせてくれる人があって、そこへ行った。
 畑を耕す牛を飼い、米から野菜まで何でも作った。そこは、日本人ばかりの地区だったけれど、意地悪されたことはなく、むしろいつも助けてもらって、いいときを過ごせた。一生の中でもみのきでの暮らしが一番幸せで、いつまでもここで暮らしたかったけれど、ご主人の病気がそれを不可能にしたという。
 ご主人が57歳、趙さんが41歳の時、ご主人が脳梗塞を起こし、半身不随になったため、農作業ができなくなり、泣く泣くもみのきを離れ、ツテを頼って川崎に来た。もみのきで、生まれた娘を入れて家族は5人になっていた。
 子どもたちにとっては、川崎にきて、学校が近くなったことが嬉しかったみたい。もみのきでは、地区にあった小学校の分校は小学校4年生までで、その上は、自転車で山坂の道を通わなくてはいけなくて、たいへんだったから。往きは下りで、『よいよい』なんだけど、帰りは上りで押してこなくてはならず『こわい』だった。
 
「下関の朝鮮部落のトングルトンネ、ええ、知ってますよ。結婚した娘のダンナさんの実家があって、2~3度訪ねて行ったことがあります。あそこは魚が美味しくて、ふく(ふぐ)を買って来て、刺身にしたり、鍋にしたりしてくれて、ごちそうになりました」
 
川崎で働く
 ご主人は、半身不随で川崎に来て、仕事ができないので、趙さんが一人働いて、一家を食べさせ、子供の教育費まで、稼がねばならなかった。そのため、すこしでも賃金のいい仕事を求めた結果、いつも男の人に混じって力仕事をすることになった。道路工事や土方などが主な仕事だった。
 趙さんは川崎に来て、もう50年になる。ずっと池上町に住んでいる。「池上のことも、トングルトンネっていうんだよ。引っ越してきたころは、どこもここもきたなくて、なんとなく臭いにおいがするし、特に雨など降ると排水が悪くて、あちこちにウンチがぷかぷか浮いて、雨が上がるとそれが地面にこびりついて、におうんだよね。朝鮮部落は当時、どこもこんな感じだったからそれで、どこの地区の朝鮮部落もトングルトンネっていうんでしょうね。池上も当時はこんな風でおまけに、いつも、家の外でも中でも大声がいきかって、雑然としてたけど、いまでは町もきれいになり、車は入ってこないので、静かで住みやすい町になりました」
 
 ご主人は、57歳でたおれ、77歳で亡くなった。亡くなる前の5年間は寝たきりになったので、趙さんは、働きながらご主人の看病を続けた。食事の世話や着替えや入浴など、一人でせねばならず、特に床ずれをつくらないように細心の注意を払ったという。介護保険制度もなく、誰にも頼れない看病はきつかったとも。
 今は、ひ孫が二人いるほど、家族はふくらんだ。
 
 池上町に引っ越してきて、20年経ったとき、もみのきを訪ねて行った。知っている人がまだ、たくさん元気でいて、おしゃべりをして、本当に懐かしくて楽しかった。そこだけを訪ねる目的だったから、炭鉱のあとなど行ってみなかった。
 
 韓国へは国を15歳で出て、48年振りに63歳のとき行った。身内や親戚は釜山に出て暮らしているので、釜山に行った。すでに、両親はなく、きょうだいのうち弟二人はユギオ(朝鮮戦争)で死に、3歳で別れた妹だけが趙さんの残された家族であった。
 
(感 想) 

  • 趙さんご夫婦の人生の中心をなした炭鉱生活こそ、日本資本主義および軍国主義の発展を担うエネルギーを掘り出す、正にその流れに組み込まれた過酷で冷酷なものであった。6つも7つも炭鉱を変えたという事実は、彼らが労働の厳しさに報いる扱いを受けていなかったことの証明であろう。もっといえば、その労働はいいように搾り取られ、女はもっと便利に使われたということである。
  • 趙さんが、炭鉱の先端部分の狭い場所で、「体をこうやって横になって、父ちゃんが掘ったものを私がスラに入れ、後すざりするようにして運搬車のあるところまで、背を低くして運ぶんです。いざ、車の所へ来たと思って、気を抜いて、手を上に上げてスラの中のものを移そうとすると、天上に思いきり手を擦って怪我をするんです。ずっと窮屈な格好のままなんです」と、その時の動作をしてみせてくれたとき、これが手元も良く見えない暗い場所で、湿度一杯・高温の中で行われたのかと思うと、趙さんが見せてくれた動作が、急に真実味をもって胸に迫ってきた。
田川市石炭・歴史博物館で展示されている手掘りの様子

 

 
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