旅の記録 
・田川市石炭記念公園
 筑豊炭田が広がる遠賀川流域は、かつては豊かな穀倉地帯であった。石炭が発見された後も、そのほとんどが民用で、人々の素朴な暮らしに大きな変化はなかったという。明治以降、国の保護を受けた大資本がこの地域にまたたく間に進出した。田川市周辺は、「三井の城下町」と呼ばれるほど、石炭産業で潤うことになったのである。
 そして、昭和中期以降の炭鉱産業の斜陽、相次ぐ廃業は、すなわち田川市全体の停滞を意味した。今では生活保護受給者のパーセンテージが全国的に、トップクラスであるという。それ故にこそというべきか、ここが「石炭」で栄えたまちであったことを「記念」する公園と、記録をとどめる博物館が作られた。
 
 
韓国人徴用犠牲者慰霊碑(1988年建立)
 
 記念公園内、石炭・歴史博物館の横の高台に、韓国人徴用犠牲者慰霊碑がある。
この碑は、公園内でも高くて見晴らしのいい場所に、祖国朝鮮半島に向かって建っている。「日本人の助けを借りず、自分たちの手で建てるのだ」と1988年4月、在日韓国民団田川支部と韓国人徴用犠牲者慰霊碑建立委員会の手で建立されたとのことである。一番低いところで働かされた人の霊を慰めるため、一番高いところに、多額の資金を投入して建てられた。
 中には、11柱の遺骨が納められている。
 慰霊碑の両側には、ムグンファが植えられ、碑文もハングルと日本語で掲げられている。碑の台座の周りには、建立のために寄付を寄せた人の名前は彫られているが、犠牲となった人たちの名前はどこにもない。日本国の政策に翻弄され、命を奪われた人の「死人権」を癒すというより、日本の「国家」に対する、韓国の「国家」の威厳を歌い上げているようで、鼻白む。
 案内を引き受けてくださった、犬飼光博牧師が、この慰霊碑に寄せる想いを朝日新聞に書いておられるので、以下に紹介する。碑文の日本語訳とともに。
 

《徴用犠牲へ懺悔の心は~筑豊さんぽ道》

犬養光博
朝日新聞筑豊版2009年12月9日

 筑豊が決して忘れてはならないことの一つに、強制連行され、強制労働させられ、亡くなっ た朝鮮人のことがある。犠牲者を祭る慰霊碑があるのはまだいい方で、あっても全員の名前が記されているわけではない。
 沖縄では地上戦に巻き込まれた朝鮮人もいた。摩文仁の丘で1975年に建立された「韓国人慰霊碑」には「この沖縄の地にも徴兵・徴用として動員された一萬余名があらゆる艱難(かん・なん)を強いられたあげく」と記されている。犠牲者数が正確にはわからなかったせいだろう。一方、隣接する日本人の碑には正確な人数はもちろん名前まで記されている。
 それは当時の朝鮮人が日本人には「見えない人々」であり、もっといえば「モノ」でしかなかったことに起因するのだろう。問題は、現在のぼくたちがその朝鮮人観を克服しているかどうかだ。
 日本国は一貫して外国人に対して「排除と同化政策」をとってきた。日本の利益にならない者は排除し、利益になる者には日本人化を強いた。それが「見えない人々」にした原因であり、「モノ」とした原因だと思う。大問題になった指紋押捺拒否闘争も在日朝鮮人が勇気をもって拒否する行為に出るまで日本人の間で気付く者はなかった。
 発見された1944年の特高資料によると、当時の三井田川鉱業所への移入労働者は2652人と記されている。大半が朝鮮人であったろう。田川でも多くの朝鮮人が働いたことを示しているが、その記録が田川市石炭・歴史博物館にはほとんどない。
 この博物館の野外展示場からは旧三井田川鉱業所の二本の大煙突が見渡せる。その煙突の間の先の小高い丘に碑がある。88年4月5日に建立された「韓国人徴用犠牲者慰霊碑」だ。
 石炭記念公園の一角を占め、このあたりでは一番高い位置にある。かつて強制連行され、炭鉱の一番危険な所、一番低い所で働かされた同胞の慰霊碑ゆえに、一番高い所に建てたのだと聞いた。磁石が備えられ、正確に祖国の方に向けて建立されている。
博物館や石炭公園を訪ねる人々の中の何人がこの碑を訪ねられるだろう。懺悔(ざん・げ)の気持ちをもって訪ねる人は皆無にちかいと思う。
 

韓国人徴用犠牲者慰霊碑・碑文
 この世に生をうけたものは、皆等しくその生を享受することができる。
 鳥は空に舞い、魚は水に遊び、命の限り生を楽しむ。まして、万物の霊長たる人間は、さらに言うまでもない。
 思えば、大韓帝国末期、日本は「日韓併合」の美名のもとに人道に悖(もと)る政策を断行した。特に第二次世界大戦が勃発するや韓国人の徴用、強制労働は、さらに苛酷なものになった。
 なつかしい故国と父母、妻子、兄弟、姉妹、親戚とも引き裂かれ、不慣れな風俗、人情の地、日本に強制連行され、戦争にかり出され、また、労役に苦しめられた。そして、ついには、夢寐(むび)にも忘れぬ父母、妻子、美しい故国の山河を二度と見ることもなく逝ったのである。
 されば極まり無い数多くの御霊の痛恨はいかばかりであろう。いつになったら晴れるであろうか。
 歳月は無情にも溢れ、はや四十有余年を重ね世の中は大きく変わった。しかし、この先いかに歳月を重ねようとも、この凄惨な事実が埋もれてしまうことがあってはならない。
 よってこの地に在住する同胞ここに集まり、ささやかながら、この石碑を建立する。
 否塞な国運と共に犠牲となった同胞の御霊を末永く慰め、再び不幸な時代を繰り返させぬよう戒めの標(しるし)とするものである。
 冥界(めいかい)の御霊よ、願わくばその恨みを忘れ給え。そして安らかにねむり給え。
 
田川地区炭鉱殉職者慰霊の碑 (1989年建立)

 
 同じ石炭記念公園内には、田川地区の全炭鉱における殉職者(犠牲者)のための慰霊碑がある。碑文に見られるとおり、田川地区だけでも、2万人近い人が、ガス爆発、落盤、出水、坑内火災などの犠牲になったとされている。しかし、これらの死者に対する国家や企業の反省の文はなく、「感謝の誠」をもって、彼らはまつり上げられているにすぎない。
 
 
田川地区炭鉱殉職者慰霊の碑・碑文 
 昔、燃える石と言って重宝がられた石炭は、明治維新による西洋文化の導入と、産業の近代化に伴い、筑豊は我が国最大のエネルギー源となった。富国強兵の国策は不幸にして、日清日露の戦役となり、満州、支那事変と止まるところを知らず、遂に、世界を二分する太平洋戦争に突入、爾来四年、人類史上計り知れない惨禍と犠牲をもたらし、昭和二十年八月一五日終戦を迎えたのである。
 失意と絶望と廃墟の中に起ち上がった我が国は、驚くべき努力と英智によって、ここに世界の経済大国として再び奇蹟の復興を遂げたのである。戦争中には徴用や各国捕虜等、老若男女を問わず石炭増産に狂奔し、また戦後は祖国復興の為、大小300余の炭坑、中小無数の採掘の活況は実に壮観であった。然し一方、瓦斯爆発、落盤、出水、坑内火災等の被害も又甚大で殉職者は推定2万人とも言われている。やがてエネルギー革命により、百年にわたる炭坑の灯は消え栄枯の歴史の幕は閉ざされた。
 今日、吾が郷土の発展の陰には、貴いこれら炭坑殉職者のいることを決して忘れてはならない。茲(ここ)に奇しくも地域住民、諸団体等の賛同のもとに、此の碑を建立し、諸霊のご冥福を祈り感謝の誠を捧げるとともに、末永く筑豊炭田の歴史を伝えんとするものである。
 
強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑 (2002年)

 炭鉱殉職者慰霊之碑のすぐそばに、強制連行中国人殉難者の慰霊の碑「鎮魂の碑」がある。戦局が厳しくなるにつれ、中国からの労働力の動員も本格化していった。1941年11月「華人労務者内地移入に関する件」が閣議決定、以降、港湾荷役や炭鉱労働を担わせるために、段階的に増員されていった。1945年までに、総労働者数は、38,935人に達したと記録されている。
 「鎮魂の碑」は、三井田川炭鉱へと連行され、死亡した中国人を追悼するため、日中友好協会田川支部が、2002年4月に建てた碑である。犠牲者の一部ではあるもが、17人の名前が出身地とともに彫られている。
 
強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑・碑文
建立にあたって
 かつて一五年戦争の末期(一九四三年~一九四五年)日本政府は国内の労働力不足を解消し、戦時下の生産力を維持するため、当時侵攻していた中国大陸での中国軍俘虜および行政供出によって中国人三八九三五名を日本国内に強制連行した(内六八三〇名死亡)と記録されている。
 その中で、三井鉱山田川第二・第三坑に六六八名が送り込まれ、終戦まで石炭生産に従事させられたのである。その間、六名が作業現場で災害に△△殉職、二一名は病死(内三名獄死)で不帰の人となった。これら殉職者の冥福を心から祈るものである。歴史を鑑に恒久平和を願って・・・。
  
田川石炭・歴史博物館
 
 博物館のパンフレットには、「この博物館は、石炭のなりたちや、石炭がどのようにして採掘されたか、また、炭坑で働く人々や生活のようすを、イラスト、模型、道具、ジオラマなどを使って展示し、炭鉱の歴史が一目でわかるようになっている」と記されている。
 つまり、「明治の頃は労働環境としてはたいへん厳しかったにもかかわらず、日本の近代化を支えてきた石炭産業は、時代の移り変わりとともに、採掘技術や環境も整って、近代産業として発展した。ここの展示を見れば、一時代を支えた素晴らしい石炭産業が、この地に盛んであったことがわかるだろう」とのコンセプトを伝えたいのであろうと、その意図が見え隠れしている。
 確かに、この地は、遠賀川沿いに数百の大・中・小、さまざまな規模の炭鉱が存在した、筑豊炭鉱地帯上にあり、石炭・歴史博物館をもつのに相応しい土地であろう。
しかし、この地に長く住み、炭鉱産業の衰退とともに人々の暮らしが荒廃していく様を見続けていらした、犬養さんに導かれ、展示の見方の説明を聞けば、私たちは、これらの展示の裏に隠されている真実とは何であるか、読み取らねばならないことを教えられる。
 
 第1展示室にはいると一番初めに目にする、「坑道ジオラマ」。坑道の最先端・切羽で寝掘り(立って掘るほどの空間がなく、横になって掘る)をする先山(さきやま)の男性と掘り出された石炭を竹かごで背負って出る後山(あとやま)の女性、夫婦がペアーになって、暑さのため裸同然で、きびしい労働をしている様子を、博物館の説明員は、「これは、明治時代の採掘風景で、その後女性が坑内にはいることは認められなくなった」と言うそうだが、犬養さんは、「この姿は、在日一世のハラボジ、ハルモニが語ってくれた坑内の風景そのもであり、大企業ならいざ知らず、中小の炭坑ではいつの時代にもあったことです」に続いて、次のような説明をしてくださった。
 
  • 坑内の安全など、守らない炭鉱がほとんどで、大工が見て廻って簡単なつっかい棒を設置して落盤防止とした。坑内では、絶えずどこかからザーッと土砂が崩れ落ちる音がし、いつ生き埋めになるかという恐怖に震えながら働いた。
      
  • 防毒マスクが展示されていたが、中小の炭坑では、有毒ガスの察知方法として、カナリアを使った。
      
  • 坑内で石炭車を運ぶために馬が使われた。坑内は有毒ガスが蔓延、湿度・気温が高い、そして石炭車は重い。馬は、あえぎあえぎ、やっと坑口まで石炭車をひきあげると、嬉しさのあまり、手の付けられないほどの勢いで、駆け出してしまう。馬の手綱を引いている人間は、よほどしっかり握っていないと、振り回され、飛ばされてしまうほどだ。馬は、しょっちゅう死んだ。
      
  • 徴用朝鮮人の逃亡者は多く、それだけ過酷な労働であったということだが、協和会手帳ももち合わせない朝鮮人は、飯場や炭鉱にもぐりこんで生きるしかなく、再び炭鉱にもどる場合は、さらに劣悪な炭鉱→逃亡→さらに劣悪な炭鉱の繰り返しとなった。
      
  • 景気のいいときは、大手の炭鉱は、中小の石炭を買い集め、戦後、国のエネルギー政策が石油にかわっていく過程で、生産調整がなされると、中小零細炭鉱を一番に見捨て、つぎつぎ廃鉱に追いやった。
      
  • その歴史の中で、三井三池炭鉱争議があった。組織労働者の闘いで、世間の注目を集め、多くのカンパも寄せられた。しかし、その闘争には、組合結成など夢のまた夢であった、未組織労働者のことは含まれず、一顧だにされなかった。全労働者を巻き込んだ闘争であったなら、炭鉱労働者の歴史は違ったものになり、エネルギー政策転換の中で、次のいき方を希望をもって模索できる力が生まれたのではないだろうか。
 
   第2展示室には、山本作兵衛(1891~1984)の描いた「炭坑記録画」が展示されている。彼は、6歳でヤマに入り、50年間にわたり炭坑で生き、60歳になって描き始め、数千点の作品を残した。
 上野英信は「脱がせたひと」という短い文の冒頭に、「山本作兵衛さんは、文字通りヤマの画狂人である。永劫の闇にとじこめられたわが国炭鉱労働史の地と肉を、彼はツルバシを絵筆にかえて掘りおこした」と書いているが、確かに、それらの絵は、「生活記録画」という言葉では片付けられない迫力をもって、見るものに迫ってくる。
 彼の絵は、長い間暗い坑道内で過酷な労働を強いられたものでなければ知り得ない場面を、彼らでなければ、抱き得ない感情をもって、正確にそして豊かに表現している。
 先の上野英信の文章の中で、彼が初期に描いた絵の中では、上着を着、長い腰巻をつけている女坑夫の姿が、オッパイを出し、短い腰巻にかわっていき、それ以後、女坑夫たちの肌色がみずみずしい生気をおびたものになっていった経緯が興味深く書かれている。明治生まれの山本作兵衛には、当初、女性のオッパイなど見せてはいけないという、古風なためらいがあったという。
 犬養さんは、「これらの絵の中に、一つだけウソがあります。それは、“光”です。坑内は暗く、ほとんど光のない場所でした。絵にするために光を入れたのです」と話された。
 
 博物館の外には、旧三井田川鉱業伊田竪坑の天を突くような煙突2本と櫓(いずれも国の登録有形文化財)がそびえ、その足元に石炭の輸送に活躍したSLや採炭・掘進・運搬などに使われた大型機械類が展示されている。2本の煙突は、三池の煙突と「炭鉱節」の本家争いをしているとか。だが、そんなことより、櫓を使って、竪坑の底から石炭をケージに入れて巻き上げるとき、特に巻きもどすときのスピードが尋常ではなく、その作業をする者は、歯を食いしばり、下腹に力をいれて踏ん張っていても、キンタマがひんむけてしまうほどであったそうだ。
 この話のあと、犬養さんは「すべて、石炭の迅速な運搬が第一で、人間のことは何も考慮されていなかったということです」と、付け加えられた。
 煙突や櫓の見える場所に、炭住長屋が再現されている。古いタイプのものは、4畳半に押入れひとつ、昭和になってプラス6畳。そのひとつに、炭鉱の購買部で売られていたものや、給料の替わりに配られた金券(外部の世界では全く通用しない)などが、並べられていた。
 犬養さんの新婚生活は、廃業になった炭鉱の長屋住宅のひと部屋からであったという。
 
 博物館および屋外展示場は、広い敷地を有する「石炭記念公園」のなかにある。博物館の正面玄関横に、公園の案内板がたっている。しかし、公園内に建てられている「韓国人徴用犠牲者慰霊碑」を指し示す案内はどこにも書かれていない。
 また、屋内外の展示の中に、朝鮮人や部落民に触れたものは皆無であった。石炭産業の中でこれらの人々の担わされた役割の大きさからいえば、無視することは許されないと思う。
 強い憤りをおぼえる。
 
  
在日コリアン一世の炭鉱労働を学ぶ
下関・筑豊フィールドワークの旅
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