旅の記録 
 
・日清講和記念館
ガイド: 広崎リュウさん
 
 日清講和記念館は、春帆楼の脇に併設されている。割烹料理屋の春帆楼は、伊藤博文がご贔屓にしたことから迎賓館としての役割を担った。日清戦争の終結に際して、伊藤博文は会談の場所を春帆楼に指定したという。今でも、春帆楼は宿泊ができる宴会場、本格ふぐ料理の老舗として賑わっている。
 その堂々とした門構えに引き寄せられるように歩き出すと、「今日はそっち(春帆楼)ではなく、こちら(日清講和記念館)です」と広崎さんに呼び止められる。春帆楼の脇にこじんまりと建てられている日清講和記念館には、伊藤博文と李鴻章が中心となり、下関条約(明治28年3月)を締結した部屋などが再現されている。
 一見、華やかな歴史の一場面を保存したかの印象を受けるこの記念館の、別の解釈の仕方を、ガイドの広崎さんが分かりやすい言葉で、丁寧に説明してくださった。
 
広崎さんの解説
 1875年、仁川に日本の軍艦が入り、大砲を打って脅かすわけです(江華島事件)。さらに、首都、ソウルに入ろうとする。これはれっきとした国際法違反。他国の川を上って首都に迫るなんて、とんでもないことです。
 当時、日本の軍艦の方が、性能が良かったですね。だから当然、日本が優勢で仁川に上陸して、略奪とかをしたのに、「日本の軍艦を傷つけた」という言いがかりをつけた。そして「日朝修好条規」という一番最初の日本と朝鮮の条約を結ばせる。
 その条約には、「朝鮮を独立国と認める」という文言が含まれました。これは一見、聞こえがよい条文のようですが、当時、清と朝鮮とは冊邦関係(中国皇帝が周辺国と君臣関係を結び、国際秩序を維持する制度)を結んでいた。これが日本にとっては邪魔だったわけです。この冊邦関係を断ち切る意図が、「日朝修好条規」にはあったわけです。
 後に朝鮮半島で農民の反乱が起きていきます。李氏朝鮮が腐敗して、抵抗勢力が優勢になっていった。1894年には、東学党の乱というのがおきる。この乱の際に、朝鮮政府は日本と清に鎮圧要請を出してしまう。鎮圧しようと両国が朝鮮半島に乗り込んでくるわけです。実際には、出てくる前に反乱がおさまってしまうのだけれども。おさまったのだったら、本来なら兵を引き上げなくてはならないはずなのに、引き上げない。
 そういういきさつで、朝鮮半島で日本と清が対立し、それで日清戦争がはじまるわけです。でも、戦争をはじめるには口実がいる。1894年7月23日、日本の軍隊が朝鮮の景福宮(キョンボックン)に攻め入って国王を人質にする。強制的に国王に「日本に、清を討ってくれ」という詔勅を出させる。これで日清戦争がはじまる。つまり、日本が作った戦争です。
 戦争が始まった翌年には清が敗北し、日清講和会議に至るわけです。
 続いて、ロシアと日露戦争(1904-05)に突入していくわけですが、この戦争も日本が朝鮮への影響を強めるために行った戦争です。日露戦争のさなかに、日本政府は大韓帝国との間に、日韓議定書を取り交わし、ますます支配力を高めていったのです。
 だから山口県では、伊藤博文を「伊藤公、伊藤公」とヒーロー視するわけなんですが、これは僕はすごく問題だと思うんです。伊藤博文が中心になって、日本が朝鮮半島に対して何をしたのかということを、きっちり捉えていかなければいけないと思います。
 
 
 
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