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■ 旅の記録 ■ | ||||
・宇部 長生炭鉱跡 ガイド:山口武信さん(長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会代表) ![]() 海岸沿いの道路に車を停車し、案内をしてくださる山口武信さんを待つ。山口さんは、偶然にも金芳子さんと同じ昭和5年生まれ。中学生の頃、萩森炭鉱近くに引っ越されたそうだ。 「北朝鮮に帰国し、今では連絡が取れなくなった友人の声が今も耳に残る」と涙に声を詰まらせて語る山口さん。父親は、酒好きで、マッコリもよく飲み、ばくだん(カストリ焼酎)で命を落としたという。 長生炭鉱に話を戻そう。海岸の正面の土地には、茫漠と草が生い茂るのみ。炭鉱跡地だと言われても、一向にイメージが湧かない。身の丈ほどもある草木をかき分け、かき分け入っていく。とても並んで歩くことはできない。一列になって、みんな無言で進む。そこには長生炭鉱の入り口の階段だけが残っている。山口さんの案内なくしては、炭鉱跡とは皆目見当もつかない。 その少し離れた場所に、「長生炭鉱殉難者の碑」が建てられている。 海底炭鉱とは、その名の通り、海の下に埋蔵されている石炭を掘り出す炭鉱である。山口さんの研究ノート「炭鉱における水非常-昭和17年長生炭鉱災害に関するノート」に、『山口炭田三百年史』からの抜粋が掲載されている。それによると、宇部、小野田両市の海底に石炭が埋蔵されていることは、江戸時代末期から知られていたそうだ。しかし、これを開発しようという試みは、相次ぐ天盤の崩落事故、浸水事故、火災事故により、なかなか実現しなかった。それほど危険だったわけである。それでも、「陸上部の埋蔵炭量が少なくなり、長期大規模な稼行に耐えなくなった」ことを第一理由に、「宇部炭鉱の主力は海底に向かって進出」したのである。 長生炭鉱は、良質な鉱脈が地中浅くあったため、海底炭鉱の落盤は、戦前もあったそうである。朝鮮人労働者が多いことから「朝鮮炭鉱」とも呼ばれていた。 戦時体制に入り、石炭は量産体制の一途を辿った。1942年の大災害の前にも、幾度か浸水事故は起きていた。日本軍の真珠湾攻撃(1941年12月8日)の1ヶ月前にも、出水があったそうである。最低限のトンネル補強工事のみが施され、掘削は突き進められた。さらに、1941年12月、大日本帝国軍はマレー半島に上陸し、戦闘ムードを高揚させていた。翌、1942年にはシンガポールに侵攻、紀元節(2月11日)までにシンガポール陥落を目標と掲げていた。内地の炭鉱では、戦地で命をかけて戦う兵隊さんを思って、特別に量産体制を強いられていた。病人も休みなく働かされていた時、その事故は起こった。 2月3日、その日は特に量産目標を掲げられた「大出し日」だった。出水地点は坑口より1010メートルの以層坑道と推定されている。突然ゴーッという音がして、バリバリという音と共に天井が抜け、滝のように坑道を海水が走って行った。あっという間に天井まで海水に浸かり、迫りくる死に為すすべがなかった。地上に再び戻ることのできた人数は、坑口近くの者が主で、わずか10数人だったという。そのまま遺体は引き揚げられぬまま、今日に至っている。 ![]() 山口さんが長生炭鉱について、丹念に歴史を掘り起こすまで、犠牲者名もきちんと把握されていなかった。それどころか、犠牲者の人数すらも、はたまた事故の起こった日付さえも、記録によってまちまちだったのである。 1982年に建立された「長生炭鉱殉難者の碑」には、犠牲者の正確な数さえ刻まれていない。このことに問題意識を持った山口さんたちは1991年に「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」を結成。1993年からは、毎年、韓国から証言者と遺族を招き、慰霊祭とフィールドワークを実行している。 山口さんの案内で、一面の草むらにしか見えない広大な土地に、かつて「募集」朝鮮人労働者の炭住があったとの説明を受けた。朝鮮で「募集」が始まったのは、1939年7月28日付けの厚生、内務両省の「朝鮮人労務者内地移住に関する件」という通牒に端を発する。「募集」とは言うものの、朝鮮の面事務所(村役場)では推挙人の協議が行われ、特定の個人が「指名」された。「断ればしょっぴかれると思った」という証言からも、支配を受ける側にとって、少なからぬ強制力が伴っていたことが想像される ![]() 「募集」による朝鮮人の炭住は、後期には4人一部屋であった。初期のしばらくは、宿舎の建設が間に合わず、バラックに180人が一部屋に入れられていたそうである。逃亡を防ぐため、炭鉱全体が木の板囲いの中にあり、独身者の寮はさらに背丈の3倍くらいの板塀で囲われていたという。脱走者は後を絶たず、逃亡してつかまった人は、見せしめに折檻された。それでも、汲み取りトイレが、清掃されたとき、その穴から脱走を試みる人達があった。 長生炭鉱が現実にここに存在したのだということを、今に伝えるごくわずかな片鱗。坑道に入る階段も、山口さんがいなければわからない。今も多くの朝鮮人が眠っていることを示す唯一の目印、ピーヤ(通気口)も、説明の看板もなく放置されている。山口さんのような方が、地道に慰霊と歴史の風化を許さない活動をされていることに、脱帽である。同時に個人の力でできることには限界がある。宇部市、山口県がこの歴史に正面から向き合う日が来るのであろうか。 山口さんは1991年刊行の研究論文に、次のように書いておられる。今も色あせずに、この言葉が響いてしまう現在の状況を、心から真摯に受け止めたいと思う。 ・・・朝鮮人殉職者の全員につき死亡通知は家族のもとに確実に知らされているのであろうか。また、強制貯金や殉職者の遺族への補償はなされたのであろうか。殉職者の兄弟が炭鉱に行っても親でないからと何も貰えずに帰ったとも言われている。50年を経た今、国と国との間の政治的な問題は兎もあれ、私たち日本国民は、日韓併合の36年の間、日本国と日本人が行った、朝鮮人、韓国人への非行の数々に対する謝罪無くしては真の国際親善は成り立たないと思う。個人的に何をした訳でなくても、国が、国民が行った加害行為は、国民の誰もがそのことについて、自分は加害者ではないからと局外に立つことはできないのである。長生炭鉱の問題も今やうやく全貌が見え始めて来たが、この水没事故を単なる水没事故として放置する訳には行かないのである。事実を明らかにして、私たち宇部の歴史の一端として、深く思いをいたす必要があると思う。床波の海辺に立って、海中二つのピーヤを見るとき、私たちはこれは日韓、日朝の二つの民族の墓標として、後の世代に伝える義務があると思うものである。 (p.37) 「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」のURL: http://chouseikizamukai.hp.infoseek.co.jp/index.html |
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