地域の共生の歴史と文化を記録する聞き取り事業
「浜町、桜本の戦後混乱期の様子」
2007年8月23日(木)14:00〜16:00 於 川崎市ふれあい館
大島利男氏(元野州工業社長)
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語り手のプロフィール
1931(S. 6)年4月16日生まれ、76歳。浜町で生まれ育つ。川崎大空襲後、両親の出身地であった栃木に避難。1947年に川崎に戻り、事業を始める。材木屋から土建屋へ。


□浜町に生まれる
 
 生まれは浜町のセメント通り。両親が現在の浅見肉屋の場所でタバコ屋を営んでおり、そこで生まれた。親の商売は、もう1軒あった。セメント通りを出たところで、雑貨商をしていた。


□朝鮮人との関わり・イメージ
 
 朝鮮人は、この地域に大勢いたので私にとっては「大事なお客様」という存在。「親日派」という言葉があるが、自分は「親朝派」だと思っている。小学校1年生のときから、ずっと一緒にいたから、違和感というのはまったくない。「だいぶ日本人にいじめられた」という話も聞くが、ぴんと来ない。途中から来た人はどうかわからないが、われわれは、この近所で、ずっと一緒だったから。持ちつ持たれつの生活をしていたという印象がある。
 母は、話し好きな人で、よく朝鮮の人を家によんで、お茶を飲みながら話をしたりしていた。それで、戦後も朝鮮の方たちから慕われていた。


□大島小学校――腕力が強い朝鮮人の子どもたち
相撲部写真

 
 地元の大島小学校に通った。当時は50人ずつ6クラスくらい。朝鮮人がざっと1割、クラスに6〜7人はいた。朝鮮人の子どもが日本の学校でいじめられたという話もよく聞くが、ことこの辺に関しては、むしろ、日本人のほうがいじめられたくらい。朝鮮人の子どもは、体力があったから。学年より1〜2歳上という場合もあった。相撲部には、朝鮮人の子どもが多くて、神奈川で1位になるくらいに強かった。
 親が労働者として、各地を転々としてきた子どもが転校生として入ってくることもあった。朝鮮人の職業は、ほとんど肉体労働なので、子どももひ弱ではなかったのだろう。
 学校には、電気がつく教室はひとつだけで、冬はすぐに暗くなってしまう。当時は「青年学校」と呼ばれる夜間のクラスもあった。
 朝鮮人の友だちの家に遊びに行くこともあった。ご飯を食べるのでなく、お茶やおやつをもらう程度。薬草の匂いがとても強かったのが記憶に残っている。にんにくが吊してあったが、にんにくの匂いはあまりしなかった。


□戦前のまちの様子
 
当時のまちの地図

 セメント通りは、夕方3時〜4時くらいになると、買物をする朝鮮の人たちでいっぱいになった。頭の上に荷物を乗せて歩く姿を見れば、朝鮮人だとわかる。そのころの「大島市場(いちば)」といえば、川崎のなかでも1、2を争うくらい繁盛した町だった。

 セメント通りの出口、現在の西ノ屋さんのところに、朝鮮人(藤沢さん?)が経営する平穣商会があり、1日じゅう、朝鮮(や時には日本)の音楽を流していた。「百貨店」とか書いてあった。食品は、いわゆる乾物で、タコを干したものや明太、鱈を干したもの、海藻類、唐辛子などを売っていた。ほかに、朝鮮の壺は、高価なものから安いものまであったし、絹の衣服も売っていて、遠くから買いに来る人たちがいた。
 しかし、戦前は、セメント通りに朝鮮人の商店は少なかった。乾物屋など、せいぜい2〜3軒。セメント通りそばの産業道路沿いに、朝鮮料理屋(料亭?)が1軒あった。また、漢方薬屋が、浜町4丁目あたりに1軒あった(申さん)。朝鮮人のお店が増えてくるのは、昭和30年すぎてからだと思う。
 戦前は、周囲にいちじく畑が多かった。湿地によく育つから。
 風呂屋(関根さん)は戦前からある。イモ屋(一条さん)も古い。

 浜町に住んでいて、桜本商店街のあたりの様子はよく知らなかった。「桜本のほうはおっかない」というイメージがあった。学区もちがっていた(大島小/桜本小)。


□戦前の朝鮮人社会と居住地域
 
 子どもの頃、まわりにいた朝鮮人は、徴用ではなく、出稼ぎで来てずっと住んでいる人たちが多かった。子どもの目からは、地域に日本人と朝鮮人が半分ずつくらいのイメージだった。
 朝鮮人の職業は、土工、ゴミの収集、し尿の運搬などの肉体労働。ゴミは大八車で焼却炉に運ぶ。清掃組合に雇われていたのかもしれない。
 徴用では、日本鋼管などに、多く来ていた。よく給料に差があったという話を聞く。日本人は5円、朝鮮人は3円など。ただ、これは熟練を要する職場で、熟練工と素人とはちがうので、仕方ないこと。
 セメント会社では職工は少なかった。むしろ朝鮮人労働者は、日本鋼管のほうに多かった。セメント通りに近いところに、日本鋼管の門があった(戦後はなくなった)。セメント通りを行き来する朝鮮人は多かったが、通り沿いに住んでいる人は少なかった。

 朝鮮人が多く住んでいた地区としては、セメント通りの西のほう一帯。浜町にも多かった。桜本の朝鮮人が暮らしていた長屋は、大雨が降ると、水浸しになるので、「あひる長屋」と呼ばれていた。当時は狭いところに家族がたくさんいた。ほかに、今の池上町の一部にも住んでいた。
 中留耕地(池上新町二丁目)には、戦前はあまりいなかったと思う。日立造船の社宅(ふつうの住宅)が100戸近くあった。そこが戦後、使われなくなり、朝鮮人が移り住んだ。日本人は誰も入っていないので、行政が介在したのではないかとも思う。


□産業道路の向こう側の様子
 
 産業道路の向こうに捕虜収容所があった(扇町捕虜収容所?)。そのお蔭でうちのあたりは焼けずに済んだ。その隣、産業道路沿いに、川崎鉄工所という小さい工場があった。
 鉱炉があった場所は…(かなり西寄りにあったと記憶している)。
 運河にかかる鉄橋は、溶鉱炉から出たノロを運ぶためのもの。東のほうに運んで埋め立てに使っていた。赤いノロを積んだ貨車が通るのを見た。


□空襲で焼け出される
 
 大島小学校卒業後、県立の旧制中学(現・県立川崎高校)へ。しかし、中学1年の1学期も終えないうちに、地元の学校ということで、戦時下の動員のため、東芝に働きに行かされた。だから学校は7年弱だけ。しかも、手旗信号だのモールス信号だのばかりやっていた。
 空襲は経験している。桜本に高射砲があったといっても、相手の飛行機が高くてぜんぜんきかない。艦載機の機銃掃射にやられたときはこわかった。
 この地域は1945(S. 20)年4月15日の空襲*で焼け野原になった。翌朝、市役所まで見えたのを覚えている。それで、親の実家がある栃木に行った。
【* ご本人は、「昭和19年」とおっしゃっていましたが、昭和20年の川崎大空襲と思われます。】


□戦後すぐに地域での交流再開
 
 (日本の敗戦後、朝鮮人がどんちゃん騒ぎをしていたというのは)現場を見たわけではないが、よく話には聞いた。
 地域では、野球を通じた交流があった。桜川野球場(戦前からある)で、戦後すぐに、青年たちが野球チームを作り、仲良く試合をしていたと先輩から聞いた。岩本(厳本?)さんという韓国人がスポンサーだったそうだ。ケンカはあったにせよ、イデオロギー的な対立のようなものではなく、違和感なくやっていたように思う。(野球のことは、副会長の山下さんが詳しいはず。)


□大島小学校の焼失と朝鮮学校
 
 大島小学校が焼けたときは、まだ川崎にいた。その後のことについては、行政がかかわって朝鮮学校を建てたのでは、という印象だが、一度、調べてみたいと思っていた。かつて教わった根岸先生が、[桜本小の分校という位置づけになった]朝鮮学校に教頭として赴任したと聞いた。焼けてしまい、その後、再建もされず、同窓会活動も何もできないで困った。


□どぶろく造りと摘発
 
 どぶろく造りは、戦後すぐに始まっていた。とくに中留耕地では、軒並みどぶろくをつくっていた。働く人たちは、みなお腹がすいているから、ご飯がわりにどぶろくを飲み、ホルモン焼きを食べていた。
 1947(S. 22)6月の税務署による取締り・摘発がよく知られている。(関税課長の殺害。)あれは、密造酒を清酒にして、瓶詰めし、有名メーカーのラベルを貼って出していた、というもの。たんなるどぶろく造りの摘発とはちがう。設備自体はたいしたことない。六畳一間でもできること。製造した清酒を遠くから来た日本人の「運び屋」がリュックに詰めて持っていく。米を運ぶ日本人の「闇屋」もいるし、そうやって、つくる、運ぶ、飲む、というふうに、共存共栄していたと言える。
 サッカリンの密造も盛んだった。セメント通りでもずいぶんやっていた。濃硫酸など、劇薬物を使うので、下水のコンクリートが溶けてしまうという問題があった。ただ、サッカリン製造は、(一応、合法だったので)あまり摘発は受けなかった。(桜本の安田さんは、サッカリン製造ですごく儲けたらしい。秋山さんのお父さんもずいぶんやっていた。)
 【樋口さんによれば、サッカリン製造はどこかの工業大学にいた朝鮮人の発明による。当時、川崎では全国の7割を生産していたという。原料はトルエン。】
 要するに、そのころは、ものすごく景気がよかった。
 朝鮮人が豚を飼っていたのは知っている。戦前は見なかった。どぶろくのカスをエサとして豚に食わせていた。豚のエサにする残飯を集める人も見なかったから、エサといえば、どぶろくのカスだったのだろう。


□材木の商売を始める
 
 栃木で2年半ほど過ごし、1947(S. 22)年に川崎に戻ってきた。浜町、産業道路の側に戻った。当時はまだ家もあまりなく、人びとはバラックを建てたり、畑を作ったりしていた。セメント通りの西のほうの朝鮮部落も、焼け出されて、みないなくなっていた。そこに住んでいた友だちも、どこへ行ったかわからない。
 父にカネを出してもらって材木屋を始めた。材木のカス、薪を密造酒づくりをする朝鮮人の人たちに売っていた。そこで豚を飼っているのを見た。中留耕地にも薪を納めに行った。半ば無法地帯のような所。材木はよく売れたが、よく踏み倒された。取引相手のなかにはひどいのもいた。やり方が巧妙で、配達しにいくと、追加注文を出される。つけ売りにするしかなくなり、そのうち、踏み倒される。それで、いやになって、やめて土建屋になった。
 百人のうち、ひとりでもふたりでも悪い人がいると、「朝鮮人は悪い」と感情的になってしまう人もいるが、日本人のなかにも悪い人はいるので、同じこと。


□戦後まもない時期の朝鮮人の商売
 
 バタ屋はあまりいなかった。古物商(廃品回収や故買=盗んできたものを安く売る)は、けっこう多かった。焼け跡の鉄くずを持ってくるというのもあったが、故買が多かった。
 韓国朝鮮人の商売というと、どぶろく飲み屋、土木建築関係、サッカリン製造、密造酒製造、というあたり。日本人もまともに勤めるところがなかった時代だった。
 パチンコ屋は、いつ頃か、はっきり覚えていないが、川崎は早かったのだと思う。駅前から始まり、その後、桜本のほうでも店が出る。
 「一杯飲み屋」はあまりなかった。どぶろくの場合、公然と店を出すことはないから。この近辺では、どぶろく飲み屋の摘発は、あまり知らない。
 中留耕地のあたりは、知らない人間には入っていくのがおっかない場所。タクシーも少し離れたところで止まるくらいだった。
 水門通り沿いには屋台がけっこう出ていた。大京園あたりか。赤提灯のどぶろく飲み屋。
 池上町には遊びにいったことがあり、大山商店(銅鉄商)の大きな看板は覚えている。それより、小さなスクラップ屋さんが多かったと思う。
 「桜本艦隊」という呼び名は知らなかったが、船を相手に商売している人がたくさんいたのは知っている。田さんも、達筆で、漢字で紙に書いてやっていた。しゃべれなくても交渉できる。それも一種の古物屋。船からいらなくなった物を買ってくる。
 ワイヤーロープがやたらと多かったのは、工場よりも、おもに船からのものだったのだろう。貨物船などでは、かなり使っている。


□野州工業[野州木材]と朝鮮人
 
 土建屋は1951(S. 26)創業。従業員は、最初は4〜5人で、やがて、50人くらいになった。従業員には朝鮮人もいた。向の丘工業高校の建築科を出た青年を学校の先生に頼まれて引き受けたことがある。野球部出身のよい青年だったが、ちょうど県立川崎高校の先生が本名を名乗る運動をしていた頃、いろいろうまくいかなくなってしまったようだ。
 ほかに、朝鮮人は、労働者のなかにかなりいた。弁当持参のときは、キムチなど、韓国料理風だったのだろう。現場が遠くて飯場で働くときは、賄い付きになる。


□日朝間の結婚・結びつき
 
 日朝間の結婚は、けっこうあった。やっぱり一般的には、親はずいぶん反対したのだろう。たとえば、男が日本人の場合、その家族が反対する。でも好きでいっしょになるのだから…。
 お金があるのは朝鮮人だから、朝鮮人の男の人と、日本人の女の人が結婚した例が多かったのではないかと思う。経済的な問題もあるし。なかには、「あれ[あの結婚]は、カネのためにやったんだろう」というふうに考える人たちもいたと思う。
 戦前、戦後を通じて、とくに変わりはないと思う。僕も朝鮮の女の人に惚れたことがある。
 東洋民族で皮膚の色が同じということで、あまり変わらない、という感じをもっている。食べ物も変わらないし、宗教もそんなにちがわないし。葬式に坊さんを呼んでやっているうちもある。地鎮祭でも、神式でやったりする。ずいぶん韓国の人の家を建てたが、向こう式の地鎮祭をしたことはない。そういう点も融通性があるように思える。
 朝鮮人の結婚式によばれたこともある。にぎやかにやっていた。キリスト教式だった。


□朝鮮戦争特需
 
 朝鮮戦争のときはすごかった。当時、材木も扱っていた。昔は、木場の問屋や地方から買ってくるという方法だったが、ちょうどその頃、市場(いちば)制度ができて、競り売りが始まった。すでに関西ではそれが主体になっていたが、関東にはなかった。
 たとえば、鶴見の駅のそばの材木屋が、競り売りを始めた。ところが、さっぱり売れなくて、つぶれそうなくらいだった。そこへ朝鮮戦争が勃発した。すると、商社が資材を大量に買い付けした。売れに売れて、もうわれわれは買えないくらい。それで、その鶴見の材木屋は息を吹き返した。今は駅前でマンション販売大手になっている。
 あれ[特需]がなければ日本の経済復興もなかったと思う。
 このあたりも景気が上向いた。請け負ったわれわれは、物価が上がってしまって、資材が入らず、事業はたいへんだった。
 当時、知っている先輩が、朝鮮から運ばれてくる米兵の死体を扱う(洗浄して棺に納める)アルバイトをしていた。仕事がどんどん増えて、と言っていた。


□野州工業の事業と思い出
 
 野州工業の事業は、良かったり悪かったり。バブル期は必ずしも良くなかった。物価が上がって賃金も上がってきつかった。途中から、福祉の関係の仕事(老人ホームなど)を多く手がけていた。請けた仕事の単価が上がらないのに、賃金を2倍、3倍にしないと職人を雇えなくて困った。とくにみなとみらいの建設が始まったころは、大手が溶接工を10万円で引き抜いていってしまった。こちらは1万5千円くらいなのに。
 行政関係の仕事も、以前、2〜3割を占めていた。「談合罪」ができてから、談合に対する取締りが厳しくなっている。以前は、悪質な業者を取り締まるのが目的だったはずだが…。ダンピング競争になると、結局は、下請けの労働者にしわ寄せがいってしまう。

 朝鮮人の人から「お宅のお母さんにお世話になって……今度、事業やるから、よろしく」というようなことを言われると、ああ、この商売をやってよかったと思う。親に感謝する。


□朝鮮人のビジネス
 
 商売で成功した朝鮮人は、浜町には大勢いる。
 (日本人が「川崎の駅前なんか朝鮮人の商売ばかりで…」などと不平を言うのは)妬ましいからだと思う。朝鮮人で成功した人たちは、先見の明があって、上手に儲けていった。それに、朝鮮人の場合は、投機性が強いのが特徴。勝負に出ることができる。ひとつ失敗しても、池上に行けばいい(笑)。またまじめに働いて、やり直せる。助けてくれる人たちもいる。
 それに比べて、日本人は、バクチが打てない。もし失敗して夜逃げでもしたら、家族や親戚にまで迷惑が…と考えてなかなかできない。
 また、朝鮮人のほうが、協調性があると思う。共同で事業をやることができる。3人寄って、百万円ずつ出し合って事業を始め、大きくなったら入札をして、誰かが引き継ぐというようなことをしている。
 頼母子講もさかん。日本人が一緒に入ってやることもある。もちろん、[カネを借りたまま]いなくなってしまったりなど、トラブルは多い。「だから朝鮮人は」「だから日本人は」というのもよく聞くこと。十人十色で、いろんな人間がいる。


□その他

■ 戦後のまちのようす――文化・社会
・正月の楽器隊のことは知らない。
・占いのおばさん(シャーマン)のことは知らない。
・葬式の「泣きばあさん」は何度も見た。
・生保をめぐるトラブル、区画整理をめぐるトラブルのことはあまり知らない。
・帰国運動のことも、あまりよくわからない。いいことばかり聞いていたように思う。
・戦前、住宅の立ち退きや強制疎開はなかったと思う。

■ 個別の店のことなど
・焼肉の西ノ屋と美星屋。七輪ひとつで商売を始めたのは、美星屋が先。ただ、店としてどちらが早かったかとなると、何とも言えない。
・岩本興産のせいじさんは、浅見肉屋の裏手に住んでいて、母のところによく遊びに来ていた。商売を始めたころ、かわいがってもらった。
・吉浜商事(田さん)には、産業道路の拡張で角の店をとられたときに、一部、譲った(?)。
・西ノ屋のそばの浜町教会のことは、知らない。
・桜苑も大京園も戦後。





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