チビチリガマ 
 チビチリガマについては、今回の旅行参加者中最年少の飯島さん(学生)が、知花さんの説明の言葉を重んじながら、彼女の感じたことも加えて書いてくれています。
 他に何人かの人も、チビチリガマを訪れたときの感想を書いています。それらの内容と重ならないようにまとめてみました。   (鈴木)
 
(チビチリガマの左手にある石碑に刻まれている碑文)

 チビチリガマで「集団自決」
チビチリガマ入り口 右手に「平和の像」、左手に「碑文」
が発生した当時の読谷村の状況をみてみると……。
 アメリカ軍が最初に沖縄を空爆したのは、1944年の10月10日。日本軍の飛行場があった読谷村はその時以来、空からの執拗な爆撃を受け続けた。そのたびに、村人はガマに避難し、夕 方5時ぴったりに爆撃が終わるのを待って、自宅にもどり、サツマイモを掘ったりして、煮炊きをし、家族の食べ
物をつくった。    しかし、4月1日の上陸を間近にした3月23日から3月31日までの爆撃は昼夜の別ない激しいものだった。4月1日以前に、日本軍は村民を見捨てて撤退しており、守ってくれるはずの日本軍のいない読谷村に、数万のアメリカ軍が簡単に上陸した。このような状況下で4月1日を迎えた。
 実は、アメリカ兵を最初に見たのは知花カマドさん(交流会で話してくださった方)だったとのこと。カマドさんは激しかった砲撃が止んだとき、家族の食事の用意にチビチリガマの外に出て、そこでアメリカ兵の姿を見た。恐怖心のあまり、「アメリカ兵だ!」と叫んでガマに転がりこんだが、その後ガマの中は、身の処し方をめぐってパニック状態になった。
 一方、同じ4月1日に、600メートル程離れたシムクガマにもアメリカ軍が到達したが、ここでは、ハワイ帰りで英語が話せ、普段の言動は「非国民だ」と言われていた二人の男性の説得で、ガマに避難していた多くの人が自ら命を絶つことなく、生きのびることができた。
 翌2日、再びアメリカ兵がチビチリガマに銃を向けたとき、ガマの中で、悲劇が起こった。
 チビチリガマの前に立ち、知花昌一さんは繰り返し、「『自決』ではありません。強制された集団死です。子どもは自分で決めることはできなかったのですから。そして、親が最愛の子どもを自らの手で殺すという異常な考えをもつようにさせられた皇民化教育こそが問題です。包丁や斧ぐらいでは簡単に死ぬことはできず、傷つけられた人は血をとびちらし、苦痛にうめきながら命絶えたのです。こんな悲惨なことが起こったのです。そのことを考えてください」と語った。これまで何回となく語っただろうその話は、語る度に彼の心に新たな想いを呼び起こすのか、全く色あせることなく、説得力をもって聞く者の胸に迫ってきた。
 カマドさんは、ガマの中で『自決』のために布団に火がつけられたあと、煙の中を7ヶ月の長女を抱いて逃げ出した。しかし、ガマにいた家族5人のうち3人は逃げ出せなかった。ガマから生還した人にとって、戦後の村での暮らしは気の休まるものではなかった。「なんでお前だけ助かったか!」という非難と冷たい視線の中で暮らさなければならなかったからだ。「村人たちは戦争を引き起こした国家の責任を追及するのではなく、そしてそのような国家を生み出した民衆の一人としての責任を反省するのでもなく、特定の個人を責め、そのことでみずからも傷つきました」(下嶋哲朗「沖縄・チビチリガマの“集団自決”」)
 そのことに、想いが至り、ガマの調査にとりかかるまでの38年間チビチリガマは触れてはならない場所であった。それだけの時の流れの間ずっと、沖縄の人々の苦しみ・悲しみ・怒りの気持は固く封印されていた。我々ヤマトンチュに対してそれらのことが訴えかける意味の深さはかりしれない。

(「新歩く・見る・考える沖縄」沖縄平和ネットワーク 編)