戦争体験を共有している沖縄の高齢者との交流の旅に参加し、どの地に立っても其処が戦跡であると意識させられる沖縄でした。また、交わりの中では和みがあってとても楽しく過ごさせて頂き、感謝でした。
初日は首里城に、そして、かつて安保の丘越しに強烈な金属音響で離着陸するジェット戦闘機・Flを見た、あの広大な嘉手納基地を新たな思いで見遣りながら、読谷村の交流会場にバスは進みました。もう間もなく会場にとの辺りで、突然暗くなり、響きわたる物凄い雷鳴と共に大雨となり、サトウキビ畑の間を走る道路は川になってしまいました。近隣に落雷があって会場は停電、お迎え下さった皆さんも困惑の表情でした。一旦ホテルに寄り再び会場へとなりました。
薄明かりの中で交流会が始まりました。間もなく回復し、会場の隅々まで灯が届く中で、沖縄の方々から、過酷な状況の中で辛酸を嘗めざるを得なかった体験が語られました。辛い思いに埋め尽くされたような重たい過去を語ることは、大変な勇気と決断を要しますが、お一人お一人から話される言葉とその時の情況を、思い浮かべながら不十分ではありますが精いっぱい聴かせて頂きました。特に、ガマのことでは、戦争なるが故の想像を絶する悲惨な出来事が数々起こっていた話に、追い詰められた人間の葛藤、極限を感じました。
ハルモニは、戦中、日本人は朝鮮人を冷遇した。特に1910年韓国併合や土地調査事業時に権力の横暴のし放題、高利貸しで土地を取り上げる。生活が苦しくそれで日本に来たが危険な仕事ばかり。戦時中も差別等沢山あった。日本のいじめを今の若い人は知らない。また、朝鮮のことを日本は知らなさ過ぎる。相互に心温めて考えて欲しい。
こうして行われた長い人生体験の情報交流は、私にとって大変に価値のある有意義な時だったし、人生を生き抜いてきた芯の強さであり、真の生きる力・業を感じ受けました。
そして、会食を共にしながら歌や踊りで、いちだんと盛り上がった会場となりました。心の底からの喜びで賑わった交流・交歓会でした。
二日目は、米軍が本島に上陸した読谷村とその周辺の戦争遺跡を、『象のおり』の地権者である知花昌一さんが、今日は現地で案内をされた。
日本の中で唯一の地上戦となった沖縄で,この読谷村は、『平和希求』への纏まりがより強く、憲法9条の看板を村長が役場に立てた程の村です。日の丸掲揚・抵抗事件のあった村でもあります。
その知花昌一さんが同行されて、琉球・沖縄の歴史や文化、そして戦争の説明をされた。座喜味城址では、史実を解りやすく説明をしたり、階段では車椅子を一緒になって持ち上げて補助をされたりのひと時だった。象のおりでは、日米関係の問題や賃貸契約上のこと、関わり合っている多くの地域住民同士の問題などを、数値を交えて具体的に話された。また、基地や施設があるために土地利用の分断とか生活上の不都合さも、日常的に感じることが多い話もされました。長年に亘る戦後の闘いが61年経った今日になってもまだ続いている、その労苦が切実に伝わってきました。
そして、チビチリガマへ。沖縄にはガマが沢山あり、自然の生活に活用されていたが、戦争時には防空壕に利用したガマの中では、大変な惨事が起きていました。軍隊は国民を護るはずなのに、沖縄では国民が軍隊に殺されました。また、数多く避難しているガマで、そのリーダーの判断で生死が決められたガマもありました。
知花さんは、ガマの前で実際にあったいろいろなことを時間をかけて話し、その惨憺たる様をありのままに具現するように、戦争の恐ろしさと愚かさを語られました。
次は、読谷沿岸の比謝川河口近くにある「特攻艇秘匿壕」です。この壕は、朝鮮人軍夫の強制労働によって掘られたものです。沖縄の字民も徴用されていました。この戦争で、日本軍は、朝鮮、中国よりの強制連行も含めて、言語に絶する悪条件の中で過酷な労働を強いてきました。その一つが此処でした。バスが停車して暫く眺めることができました。
私は、強制連行国家賠償裁判の傍聴を続けています。法廷で老体に鞭打つように全身で証言された悲痛な言葉と様子が、此処での就労の姿と重なるようでした。
今回、一日を残して一足先に帰りました。ハルモニたちがお会いする度に、明るさが身の回りに漂っているように、朗らかな笑顔で挨拶と言葉かけをして下さいます。この二日間も、いろいろな話ができてとても楽しく過ごせた旅でした。
お世話下さった関係の方々ありがとうございました。 |