「ハルモニ・ハラボジと行く旅」は過去3年、韓国でした。
今回は沖縄に行き、沖縄戦を生きぬいてこられた高齢の方々からお話を聞かせていただき、ハルモニたちも在日として生きてきた歴史を話し、交流のひとときをもつことができました。
ハルモニたちは、筆舌に尽くし難い差別をうけ、まともな働き口もなく、貧困と闘いながら生活のためについ最近まで働かざるをえなかったのです。その厳しい暮らしのことを、『思い出すのもいや』『そんなこと人様に話してなんの役に立つの?』『話下手だから』としり込みして、人前で話すことには慣れるということがありません。沖縄のおばあたちもきっとそうではないかと思います。そこを、勇気を奮い立たせて話してくださいました。それに応じて、ハルモニが語ったのです。(時間が許せば、あの雰囲気の中で、もっと多くのハルモニが話し始めたことでしょう)
「心の奥深く収めてある“つらさ”は自分の力では引き出せません。ほかのひとが、聴こうと真摯に耳を傾けてくれることによって、解きほぐれて言葉になるんです」ということをいう人がいました。今回の交流では、そのことを強く実感しました。
そして、「歴史の現場」のもつ力に圧倒されました。その場に立ったとき、記憶の中に眠らせていたことが全く予期せぬかたちでよみがえってきて、二人のハルモニが興奮して話し出しましたが、他のハルモニたちにとっても、いろいろなモニュメントの前で聞いた、沖縄における朝鮮人の話は、今まで聞いたこともなかったことであり、忘れられないこととして心に残ったと思います。「どうして沖縄なの?」と思っていたハルモニたちの心にも、しっかりと伝わるものがあったのではないでしょうか。
沖縄の若い方がたくさん集まって力をかしてくださったおかげで、全ての場所を、車椅子4台に乗ったハルモニ・脚の弱いハルモニ全員が見物することができ、感謝でいっぱいです。
沖縄の地で、いろいろな思いを抱いて活躍していらっしゃる心優しい方々とお会いでき、また私たちは新しい仲間を得たと思っています。
私自身は、沖縄の方々が「被害の沖縄だけをいうのではなく、加害の沖縄もみつめなければならない」と、在日韓国・朝鮮人の代表としてハルモニたちに向き合ってくださった中にあって、私たちヤマトンチュウはどうすればいいのか、ずっと居場所がない感じでした。
* 沖縄で急に話しだしたハルモニから、あらためて話を聞きました。
金 福必さんから戦争中の話を聞く
・沖縄旅行の感想文を書く作業をいっしょにしましょうということで、集まってもらった際、ゆっくりと彼女の話を聞いた。
・旅行中、バスの中で、対岸の特攻艇秘匿壕の話を聞き、彼女が思わず興奮して話した内容をきちんと聞いておきたかった。
作文を書きながら彼女から聞いた話は次のようであった。
・読谷村で朝鮮人が壕を掘らされたという話を聞いて、福必さんが突然思い出した人というのは、彼女の父方の親戚の人であった。
そして、「掘る」ということと関連して彼女が思い出し、話したので、沖縄が舞台だと勝手に思ってしまったが、よく聞いてみると、九州の炭鉱のことであった。
・その「事件」に福必さんが遭遇したのは、たしか昭和17年ころ、大阪の淡路という所に住んでいたときだった。
その人は、『徴用』で連れてこられて働いていた九州の炭鉱から逃げ出し、3ヶ月かかって、福必さんたちが住んでいるところにたどりついた。
逃げ出した理由は、同じ炭鉱で働いていた朝鮮人が「国に送ったはずの給料が、届いていないという連絡があったがどういうことか」と日本人の係りのものに聞いたところ、その人は「おかしいなあ。どうなったんだろう。調べておくよ」と答えるのだが、そう訊ねた人は、それから間もなく殺されたことがわかった。
そういう人は一人だけではなかった。なにか文句のようなこというと、殺される。それをみて『こんな怖いところにはいられない。逃げ出して、死ぬようなことがあるとしてもここで殺されるよりはましだ』と思って、彼は炭鉱を飛び出した。
「朝鮮人にひどいことしたり、間でお金をピンはねしたりして、それがばれそうになり、自分がやばいと思えば皆殺したんですよ。朝鮮人のことなど人間とは思ってなかったんですよ」と福必さんは言う。
大阪の福必さんのところへたどり着いた彼が、一晩でも泊まって行ったんだったかどうだか記憶がないが、たぶん少し話しただけで、隠れるようにして出て行ったと思う。逃亡したのだから捕まれば自分が殺されるだけではすまない。国に残してきた家族(奥さん、子ども、両親)や親戚にも迷惑がかかる。炭鉱を逃げ出した時点で、彼は社会から隠れて暮らさなくてはならない運命を背負うことになった。「舞鶴の山奥で炭焼きをしている人がいて、そこなら人に会うこともなく、生活できるんじゃないか」と教える親戚のものがいた。
訪ねて来て、すぐさま出て行った彼が、舞鶴へ行ってみたものやら、その後どこでどんな暮らしをしたものやら、いっさい連絡がないので分からない。韓国の家族にも何の連絡もない。
「彼は、歳はわたしよりずいぶん上でした。もう、とっくにどこかで死んでいるんじゃないですか。ドロボウと同じですよ。コソコソ暮らさなくちゃならないんですから。そんなみじめなことってありますか!」
・いっしょに、作文を書いていた徐 類順さん。「それに似たような話はいっぱいありますよ。私の親戚にもありましたよ」と、何を今になってという感じで話す。
朝鮮から連れてこられ、強制労働をさせられた上に沖縄戦にまきこまれて死んだ朝鮮人の多くが、骨がみつからないどころか、どこで死んだのかも分からないということを知り、涙を流しつつお参りした、その沖縄から戻ってきて、川崎でこのような話を聞くことになった。
* これまで、何度か福必さんの話を聞いたことがあり、語り部として彼女が人前で話す場にいっしょだったりしたこともあるが、もちろん今回の話は聞いたことがなかった。そして、また、こんな話も初めてだった。
「戦争っていうものが、どんなに異常か、普通の神経ではいられないものか、戦争はいやです。いけないです。大阪にいたころ、空襲が多かったんです。あれは、何度経験しても慣れるっていうもんじゃありません。そのたびに逃げるのに必死で我を忘れるんです。一度こんなことがありました。空襲警報が鳴って、隣組の人が“早く、早く”とどなって廻るんです。大慌てで表に飛び出したとたん、となりのおばさんに、“あんた、子どもどうしたの?”ときつい声で言われてこっちがびっくり。子どもをほっぽといて、自分だけ外へ出てきてたんです。普通じゃ考えられないことですよ」
戦争のときは、本当に他人のことにかまっていられなくて、今から思うとあんなに非情なことを自分がしたなんて考えたくもないし、そのことを思い出したくもない、
と戦争を経験したハルモニたちは一様に言う。
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